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上原六郎

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 上原六郎(一八九四―一九六四)がそのあと四代目の市長となる。昭和十八年市制改正により、市長は市会の推薦により内務大臣が勅裁を経て選任することになり、もし市会が候補者を推薦しなければ、内務大臣が一方的に決めることができるようになった。
 三沢市長の任期は昭和二十年七月十六日までだったから、その一カ月前の日付で内務省から札幌市会に新市長の候補推薦の命令が出され、直ちに銓衡委員が選ばれた。今回は敗戦直前の混乱した社会事情の下で、しかも期限内に推薦しなければ内務省は一方的に市長を決めてしまうとあって、前回までのような論議の余地は少なかった。銓衡委員は当初から移入市長を含める方針をたて、第一候補に留岡幸男(道庁部長、秋田県知事、内務省局長、警視総監)、第二候補上原六郎、第三候補三宅康次(北大農学部長、名誉教授)をあげた。この三者との折衝を議員会総会が認め、交渉委員はまず第一候補者と静岡市で面会したが、固辞をくつがえすことができず、次に第二候補者と東京で会い受諾を得たのである。こうして七月二十五日市会において、上原市長候補者推薦の件が可決され、直ちに内務大臣に送付されたが、すでに命令期限を一〇日超過していた。七月十五日予定の市会は空襲警報発令によって流会し、上京した交渉委員は交通事情の悪化でなかなか帰札できず、通信さえ思うにまかせなかったから、遅延はむしろ当然であり、市会推薦通り八月十四日上原市長は勅裁を経て内務大臣から選任された。その日は奇しくも太平洋戦争の敗戦を決めたポツダム宣言受諾の日であった。
 上原は着任早々戦後処理に追われた。市民への食糧配給、伝染病対策、インフレによる物価上昇への対応、そして占領軍進駐にともなう主要建物の接収、諸命令の処理等、市政責任者として陣頭に立って山積する難問に身を挺した。その中で二十一年一月、戦争指導者協力者の公職追放指令が発せられ、全国市町村長に及ぶことになったので、事前に市政事務を引継ぎ混乱を防ぐため、市長は辞任することになった。在任わずか一年三カ月にすぎず、卓越した経済論を活かすことはできず、その行政手腕も発揮できなかった。
 上原は札幌生まれだったから、前任の三市長と同じ移入市長とはいえないかも知れない。道庁から内務省に転勤してのち、主に東京市(都)の仕事にたずさわり、帝都復興院から東京市収入役、市民局長、総務局長を歴任し、市長になる前は東京都商工経済会理事の職にあったから、移入市長であることに違いはない。札幌市長退任後は参議院専門員、地方財政審議会委員、東京都特別区公平委員等を歴任した。

写真-2 札幌市長