篠路村は二級町村のままであったが、歴代の村長は以下のとおりであった(昭和十一年村勢要覧、篠路村史)。松尾勇次郎(大7・7・16~11・12・28)、中村佐久彌(大12・2・21~15・12・16)、桜井秀夫(大15・12・16~昭3・4・12)、横岳資行(昭3・4・12~3・11・5)、佐藤正三郎(昭3・11・5~5・7・17)、堤市太郎(昭5・7・17~8・1・6)、関谷兵吉(昭8・1・6~9・5・7)、紺谷本次郎(昭9・5・7~22・4・30)。
篠路村は二級町村であったので村長選出をめぐる政争もなく、また純農村であったために村内の利害対立も割合と少なく、しかも石狩川の治水問題と水害からの復興、札沼線の誘致など村民の課題が一致していたので、村政は他村に比較して割とまとまりをもっていたといえる。
ただ村政で大きな問題となったのは昭和三、四年に発生した学田の小作料問題であった。三年二月二十七、二十八日に開かれた村議会では、一四一町歩の学田小作料を一反歩一円二〇銭から三円に引き上げることを議決した。従来の小作料が周辺の農地に比して安価であったこと、村財政が逼迫していることなどが主要な理由であった。これに対して三一戸の小作者は、あまりにも一方的で一五割にも及ぶ急激な引き上げに反対し、小作争議へと展開していった。ところで議会での議決遵守を求める村民は、四月十日に約三〇〇人が集会を持ち、桜井村長の不信任を決議して、十一日には代表二〇人が支庁長を訪問して、決議文ならびに一七人の区長全員の辞職書を手交した(北タイ 昭3・4・12)。桜井村長はこの紛議の責任を取って辞職し、村政に大きな影響を与えることとなったのである。しかも支庁長の斡旋も不調に終わり、小作調停の裁判へ持ち込まれることになったが、八月十七日の村民代表者大会では「小作地の明渡及び損害賠償の要求」を決議し(昭3・8・22)、小作者側と村側、一般村民が真っ向から対立する構図となり、三者の感情対立も激しかった。この係争中、横岳資行村長も争議を解決できずに三年十一月に辞職していた。争議は翌四年十月十九日に調停が成立して解決したが、村有地での小作争議であっただけに村内に大きな亀裂を残す事件であった(争議については第六章三節参照)。
役場庁舎は昭和八年に新築され、十二月十七日に落成式ならびに開村七五周年の祝賀会が催された。