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道路改良政策

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 明治以降道路の造成や整備管理について、内務省はその統一化を成し遂げようとしていたが、なかなか進まなかった。大正八年(一九一九)、政府は道路法制定と同時に道路会議を設置し、また道路構造については道路構造令を制定してその統一化を図った。道路会議では道路改良計画が決議された。この会議は関東大震災の影響で十三年に廃止されるが、道路改良の民間運動も起こり、その気運は高まり、道路改良会が組織された。さらに九年には道路公債法も制定され、道路改良の財政的裏付もなされた。大正後期からは自動車が増加し始め、それまでの国道の改良に加え地方交通の中枢である府県道の改良が要求されるようになった(内務省史)。
 このような動きの中で、八年十一月北海道道路令が公布された。それにともない九年四月一日道庁告示第二四一号で、札幌江差線など二五路線の地方費道と札幌倶知安線など八七路線の準地方費道が認定された。地方費道は道庁と支庁・区役所を結ぶ路線を中心に、準地方費道は支庁所在地と隣接支庁・区役所・管内町村所在地を結ぶ路線を中心に定められた。十三年、市町村道改良工事の補助となる道路橋梁改良費補助が始められた。さらに十四年、庁令で「国道、地方費道、準地方費道道路保護規則」を制定し、町村ごとの道路保護組合の設立をはかった。さらに同年には道路改良会北海道支部も組織された(新北海道史 第五巻)。