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酪聯

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 『現代日本産業発達史』第一八巻・食品(昭42)は、「酪聯」成立の背景について次のように述べている。以下に同書に依拠しつつ、「酪聯」の展開過程をみていくことにしたい。
農家による乳牛の飼養、牛乳生産の発達の過程において北海道酪農の形成はとくにいちじるしかった。第一次大戦後の酪農の発達は、この北海道によって代表されたものといってさしつかえなかった。(中略)この北海道における乳牛飼育増大の特徴はいうまでもなく農家による酪農の発達であった。(中略)その内地酪農とのきわだった相違は、市乳生産とほとんど結合していないということであり、もっぱら乳製品原乳生産に重点をおき、その後ますますこの傾向を強めていき、全国で最大の原料乳地帯を形成するにいたったのである。このような北海道酪農の発展を基礎として、特殊な乳業資本である酪聯が成立した。

 「酪聯」は、大正十四年五月に創立された「有限責任北海道製酪販売組合」としてスタートした。こうした動きが表面化したのは、同年四月に開催された第一回畜牛家協議会(北海道畜牛家研究会主催)であって、「目下各地方の二等乳生産歩合は従前に比して極めて多く、これが原因を探究致しますと、第一は牛乳の取扱其宜しきを得ざるによるも、一面には近頃煉乳の滞貨夥しく本道各会社を通じて三万箱以上の多きに達し(中略)是等の二等乳を何時迄も会社にお願ひして処理するのが至当であるか、夫れとも生産者自ら解決の方法を講ずべきでありませうか」(酪聯十年史 昭10)と問題を提起し、共同製酪所設置の方向を打ち出した。すなわち、第一次大戦後の煉乳の過剰、乳業会社による原乳買入の制限、乳価の下落などが北海道の酪農家に大きな打撃を与えた現実に対して、この二等乳の有利な処分方法として、酪農家の手による製酪所の設立により対応しようとしたものである。こうして設立された製酪販売組合は、石狩、空知を中心に組合員六二九人、出資金五四五〇円を基礎に、白石村字野津幌の出納農場の製酪工場を借入れ、大正十四年七月からバター製造を開始した。さらに翌十五年三月には、「保証責任北海道製酪販売組合聯合会」(以下、酪聯と略)に組織がえした。
 酪聯の成立の直接の基礎は、地域単位(市町村単位ではなく)の酪農家を組織した組合の増加であった。すなわち、製酪販売組合は、北海道における酪農家の単一組織を目指したのであるが、道庁当局は産業組合法の原則から市町村単位の設立を主張し、結局大正十四年から翌十五年にかけて二五の産業組合の設立をみるに至り、連合会に組織変更を行うことになった。酪聯の事業はその設立の動機から、当初はもっぱらバターの生産に重点をおき、多種品目にわたる多角的生産を開始するのは昭和四、五年以降のことであった(表40)。
表-40 酪聯初期の生産量の主要品目別変化
品目バターチーズ加糖煉乳脱脂煉乳生クリーム酸カゼインアイスクリーム
単位 
ポンド
 
ポンド
397グラム
4ダース1箱
57ポンド
大缶1缶
5貫目
大缶1缶
 
キログラム
 
コート
大1461,300      
昭 1103,137      
2240,016      
3401,800      
4466,9824,930    16,304
5765,092 12,271224 28,57420,192
*6262,804 183306 9,1901,018
61,454,421 5,2725,628 16,53316,973
71,985,759     12,657
83,163,84129,382   8,32835,061
94,101,992122,428  3,44022,538516,508
104,526,470196,884  7,35743,283537,076
114,243,082221,191  13,96551,367809,498
124,053,872276,845  17,839149,0731,181,853
134,754,116275,505  22,341217,8651,712,913
144,238,325365,260  29,712253,3312,612,175
153,291,979319,109  26,172189,8952,988,572
1.昭和6年の*は1月~3月。
2.『雪印乳業史』第2巻,付属統計表より作成。

 ところで、昭和五年の金輸出解禁に続く全般的な不況の深化の過程で、乳業にも深刻な危機が生まれた。昭和五年下半期から翌六年にかけてバター、煉乳価格の急落、原料乳の過剰と原乳価格の下落、そして乳業会社の営業成績も急激に悪化した。酪聯にとっても、昭和五年来のバター在庫量が三六万ポンドをこえ(表41)、この年はついに一万円の損金を計上する(表42)など、この時期は創立以来最大の危機であり、①原料買入価格の切下げ、②バターの海外輸出の促進、③製造品目の多様化と副製品の商品化、④ネッスル社との資本提携計画など、種々の打開策を講じたのである(これらの具体的様相については、雪印乳業(株)『雪印乳業史』〔第一巻 昭35〕を参照)が、結局乳業諸資本との競争について一応の調整が行われ、ここに「独占的性格」が表面化するに至る。
表-41 酪聨の発足後の経営動向     (単位;1000ポンド,円)
年度バターの取扱量組織状況
生産量受入量販売量年度末在庫組合数出資口数出資払込額累計
大147766111095,470
昭 1103371409852252108,470
3401774794311334450031,812
5765768414983657465084,669
71,985242,0102,09594142857172,704
94,101204,1223,7228062102,017379,200
1.年度末在庫は廃棄処分がないものとして推定。
2.北海道製酪販売組合連合会編『酪聯十年史』(昭10)より作成。

表-42 酪聯の営業成績の推移          (単位;千円)
年度売上高損益額損益処分内訳
利益準備金別途積立金出資配当金役員賞与金次期繰越金
大1579.40.60.30.3
昭 1121.80.50.20.3
2327 2 0.91 0.1
3432 5.94 1.50.30.1
4708 4 1.62.10.30.1
5638 ▲ 10 ▲ 0.9
*6216 ▲ 57 ▲ 67 
61,164 ▲113 ▲180 
71,634 89 32 47 8 2 
84,713 38 24 12 2 
95,592 44 26 16 2 
105,892 63 39 21 3 
117,086 86 57 26 3 
129,460 119 82 34 3 
1313,791 87 52 32 3 
1416,538 134 88 42 4 
1522,406 422 249 24 
1.大正15年は4月,昭和6年の*は1月~3月分。
2.『雪印乳業史』第2巻,付属統計表より作成。

 「酪農不況下における生産者、酪農家と会社との間における紛争は、いつ果てるとも知れない様相を示し始め、事態収拾の結果として、常に酪連に問題の持ち込まれることを繰り返えした」(北海道農業発達史 下)。かくて、昭和六年の不況による混乱が一段落した翌七年から、北海道の乳業における再編が開始された。まず七年一月、酪聯と大日本乳製品(株)との間に原乳・乳製品に関する契約が成立し、さらに同年五月、日本バター組合(酪聯と極東煉乳(株)、森永煉乳(株)、明治製菓(株)、新田社が参加)が設立され、六月には森永煉乳(株)と、十二月には明治製菓(株)・極東煉乳(株)と、八年一月には新田社との原乳・乳製品に関する契約が締結された。これらの契約の骨子は、①北海道において酪聯は煉乳を製造せず、会社はバターの生産を行わない。②会社の必要とする原乳はすべて酪聯から買入れなければならない。③原料乳価は北海道乳価評定委員会(道庁、北海道畜産組合聯合会、酪聯、大日本製乳協会道支部、道内乳業各社、原料品生産者によって構成)の決定に従う、というものであった。
 すなわち、この協定は北海道における集乳競争を停止し、酪聯の独占的集乳権を保証(いわゆる原料乳の統制)し、かつバターの生産における独占的地位を確保するものだった。産業組合組織である酪聯がこのような強力な地位を北海道において確立したことは、当時の産業組合の中ではきわめて特殊な事例に属するが、それは乳業資本との激烈な競争を通じて獲得されたものであった。そして、この競争の過程で注目されることは酪聯の政治的動きであり、とくに道庁との密接な協力関係であった。酪聯は、道庁による各種の酪農・乳業補助とともに、多額の補助金を直接に得ており、また各種の間接的保護を得た(たとえば昭和八年七月、道庁令「牛酪製造営業取締規則」の公布によって、小製酪所の設立が実質上禁止され、北海道のバター生産における酪聯の地位は補強された)。とはいえ、何といっても酪聯の強力な発言力の基礎にあったのは、バター生産における経済的実力であった。すなわち、昭和五年における酪聯のバター生産の全国シェアは二九パーセントであったが、以後毎年増加を続け、国内における独占的バターメーカーの地位を獲得しつつあった。酪聯はこのような大きな独占力を発揮し、ついに乳業大手資本との戦線協定の樹立に成功したのであるが、実はこのことによって酪聯自体もまた単なる産業組合の性格にとどまらず、乳業大手資本の一角をなすという性格をもつに至った(表42)。
 この項を終えるにあたり、北海道興農公社について一言したい。北海道における乳製品生産は、すでに述べたように昭和七年の契約(原料乳統制のための)によって、原料乳供給、バター生産を酪聯の一手に掌握されていたのであるが、昭和十六年四月、酪聯を母体に道内の全乳業工場を含む「有限責任北海道興農公社」(以下、公社と略)が発足し、完全な独占体制を確立した(同年九月、株式会社に改組)。明治乳業(株)、森永乳業(株)から引き渡された工場は、年間牛乳処理量十数万石におよぶ煉・粉乳工場であり、昭和七年の契約により成立していた北海道のバターと煉・粉乳生産の分業関係は解消され、公社の下に統合された(表43)。このように、公社は、北海道における唯一の特殊な総合乳業メーカーとなったのであるが、その戦時的特色のゆえに、単なる乳業資本にとどまることはできなかった。すなわち、公社は設立の翌十七年、道庁、拓銀の出資を新たに加え、事業の範囲も、単に製乳にとどまらず、畜産加工、農産加工、皮革製造、土地改良、各種代用製品の生産などきわめて広範囲にわたり、北海道における官製農業関連事業体という性格を強めた。「もはや公社は、その前身である農業協同組合資本の性格を完全に脱皮して、国策会社という性格を明瞭にしたのである」(現代日本産業発達史)。なお公社については、『雪印乳業史』のほかに、公社農地改良部の事業について、北海道農材工業(株)『北海道の土地改良と農材十五年の歩み』(昭41)、公社種苗部の事業について、雪印種苗(株)『雪印種苗創立二十周年記念社史』(昭45)を参照されたい。
表-43 北海道興農公社の設立期の株主構成 (単位;千円)
 昭16.4.1現在17.4.1現在
株数出資金株数出資金
農業団体酪聯153,2007,660  
北聯  183,2009,160
153,2007,660183,2009,160
会社関係明治製菓29,4001,47029,4001,470
明治乳業22,8001,1403,300165
明治製糖  19,500975
森永乳業33,1001,65533,1001,655
85,3004,26585,3004,265
その他北海道  50,0002,500
北海道拓殖銀行  20,0001,000
黒沢酉蔵ほか14名1,50075 1,50075
1,50075 71,5003,575
合計19名 22名 
240,00012,000340,00017,000
『雪印乳業史』第1巻より作成。