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清酒・焼酎・醤油

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 札幌の酒造業者は、大正十酒造年度(十年十月から十一年九月まで)には酒造組合員一九人、その清酒造石高二万五四六三石であった(樽新 大12・5・3)。札幌酒造組合が十五年四月に行った清酒利き酒品評会で入賞した銘柄と製造者は次の通りであった。
優等 久天狗(札幌酒造株式会社)
一等 百寶(片岡合名会社)、北の誉(西尾長次郎)
二等 千代の寿(田村政吉)、金時(大島金蔵)
三等 旭錦(石崎白水)、北粋(波多野予三郎)、芳の川(遠藤善四郎)
(樽新 大15・4・18)

 これらの人々が札幌の主な酒造業者である。札幌酒造株式会社は大正十三年九月、札幌酒造合名会社を買収して株式会社としたもので、社長は山田利吉であった。
 昭和三年四月には札幌札幌酒造、片岡合名、旭川の笠原合名、小樽の岡田合名、帯広の坂井酒造店など合わせて九社(者)が合同し、日本清酒株式会社を設立した。本社を札幌市に置き、札幌酒造株式会社工場(南3東5)を清酒工場、片岡合名工場(大通東1)を大通味噌工場とした(日本清酒株式会社四十年史)。表52は日本清酒札幌工場の製造高と日本清酒株式会社の業績である。製造高は昭和恐慌により半減するが、九~十一年には回復し、表示した期間のピークは、札幌工場では十一年の八五九九石、全体では十二年の二万六三四五石であった。十二年度の営業報告書では、「統制経済ノ反響」や「税制ノ改訂ニ伴フ値上ノ断行」が「販売力ヲ減退セシメサルカ憂慮」していたが「全ク杞憂ニ過キス」と述べている(日本清酒株式会社 第一四期営業報告書)。しかし、十四年以降には、製造高は大きく落ち込む。これは、原料が主食と競合するためにきびしい生産統制が行われたからである。一方、商品売買益金、純益金は十四、十五年まで伸び続けた。
表-52 日本清酒の営業状況         (単位;石,千円)
 札幌工場製造高製造高合計売上金額商品売買益金純益金自製商品売掛金原料品
昭 2304681,1141,7228
38,00525,2833,2207611931,0581,8911
46,62721,4612,940647281,0011,9194
53,64312,4902,260421537381,7062
64,03911,8622,090456785081,77510
75,89717,7112,380555966051,93010
86,55820,3192,7406201396892,0497
96,89120,6213,7007341308632,28817
118,59922,3214,5809261658182,35628
128,45226,3456,1001,0672776662,02281
138,04125,6567,8701,1493165492,010160
144,94916,6567,2001,372470993203425
155,26718,3997,6001,3375947396595
163,96914,2345,06080244691128102
173,05210,9384,93069150577723690
1.年は当年10月から翌年9月の酒造年度。
2.昭和3年,5年の原料品は「精米勘定」。
3.札幌工場製造高,製造高合計,売上金額は『日本清酒株式会社四十年史』(昭43),他は日本清酒株式会社『営業報告書』(各期)より作成。

 酒造業界にとって昭和恐慌は深刻であった。昭和六年度の製造石数は大正十三年度のそれに対して四割六分五厘にまで落ち込んだ。しかも内地清酒の移入に押され道産酒が売れないという状況もあった。そこで、北海道工業試験場では、市販清酒利き酒会を催した。その結果、毎回道産酒が上位を占めたという(樽新 昭7・8・15)。道産酒の品質は向上しつつあったが、「レッテル崇拝者の多数ある関係上、内地酒が依然優良酒であり道産酒は不良であるといふが如き誤れる認識」がある。そこで八年八月の利き酒会は、一般市民の参加・投票も行った。その結果、やはり内地物よりも道産酒が人気があったという(樽新 昭8・8・21)。工業試験場が品質向上に大きな役割を果たしたことも特徴であろう。
 なお、札幌では焼酎甲類(当時は「新式焼酎」と呼ばれた)も製造されていた。昭和八年十一月に函館の酒類商金子朔太郎、日本清酒の笠原定蔵(旭川)らによって札幌焼酎株式会社が設立され、琴似村発寒川西側に工場を新設した。川向こうの北海道工業試験場には利き酒会を指導している生原長胤技師がおり、生原技師の直接の技術指導を受けながら、市販に耐える焼酎の試作を続け、短期間のうちに商品化に成功した。また焼酎製造業は清酒と異なり、戦時期にはアルコール製造を拡大し軍需工業としても位置づけられたのである(札幌酒精工業株式会社 サッポロソフト五〇年史)。
 醤油醸造業は、大正十年には全道で工場数二〇七、生産高約九万一〇〇〇石であった。ところが内地からの移入醤油が約五万~七万石にのぼり、清酒同様道内需要を道産品で賄うことが課題となっていた(樽新 大11・12・3)。原料の大豆は道産品が約三〇万石も内地へ移出されているので、醤油の内地からの移入は、道産大豆が内地へ送られ、加工されて戻って来る、ということになる(樽新 大14・10・22)。
 札幌で最大の醤油醸造業者は福山甚之助であった。巴醤油(トモエ醤油)の商標で道内、樺太からウラジオストックまでを市場としていた(樽新 大14・12・5)。工場は北四条西一丁目にあり、大正十四年には職工一〇人(札幌商業会議所 第一二回統計年報 大15)であった。このころ苗穂に第二工場を建設している。このほか、大正十四年には醤油醸造業者として佐藤醤油醸造所(南8西5、職工一〇人)、斉藤醤油醸造場(北1東9、五人)などがあった。また、味噌・醤油醸造業として佐藤醤油醸造場(南8西3、八人)、村岡醸造場(豊平3条1、八人)、長山味噌醤油醸造場(北11西1、五人)、佐藤醸造所(豊平3条5、四人)、村川醤油醸造所(北3東6、四人)などがあった(同前 第一二回統計年報)。