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失業者あふれる

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 戦後不況のはじまった大正九年(一九二〇)以降、札幌の町は失業者であふれた。世界大戦の好況が夢のようであった。
 十年春、土工部屋改善運動の先頭に立っていた井田菊蔵(労狂と号した)は、苗穂に革新会失業者救済所を開設し、土工夫の失業者を救済した(失業救済会 労働と産業 第一号 大12・3)。十四年五月十一日には、新興長屋地区であった豊平墓地周辺に大火があり、その日暮しの人々数百人が路頭に迷った。白石遊郭移転以来、豊平川河川敷にできた「サムライ部落」は、昭和初年になると二〇〇戸を越えた。後述の片岡一三は、サムライ部落に寝起きし、失業者救済運動を続けていた。市は、鉄道局から古い客車の提供を受け、失業者を収容した。人々はこの宿泊施設をルンペン列車と呼んだ。失業者が四〇〇〇人をこえた昭和六年暮には、ルンペン列車が一〇台を越えた。無産政党や労働組合は、失業問題を最大の課題とした。札幌一般労働組合の指導した昭和五年一月十四日の市役所デモは、その後何回も行われた失業者デモの最大のものであり、話題になったが、この時市役所では、市長不在をよそおった(札幌控訴院管内社会運動概況 第二輯)。これはその後慣例となった。
 解雇がもっともさかんであった昭和五年における企業の解雇状況を見ると、次のようになっており、女性の解雇が多かった。
 三月三十一日 大日本麦酒札幌工場  男 二九人 女  三人 市内木工場へ転職
 三月二十四日 北海道亜麻工業      一三    六五  帝国製麻に転職
 五月十七日  帝国製麻札幌工場           一〇  全協が反対運動
 九月十一日  大日本麦酒札幌工場    四七    二二  社会民衆党が反対運動
 九月三十日  藤屋鉄工場        二〇        全協が反対運動
前年十二月二十五日 古谷製菓        三     三  全協が反対運動
(札幌控訴院管内社会運動概况 第二輯)

 昭和六、七年は冷害のため、農村から札幌への流入者が増加し、失業者はふくれあがった。しかし、失業者は、昭和八年から減少し始めた。
 不況下においても、新しく操業を開始する工場はあった。しかしそれは、ゴム工場・皮革工場など、近隣から嫌われる工場が多く、労働者は肩身の狭い思いをしなければならなかった。大正末年に開業した豊平の皮革工場などは、今に伝えられる反対運動を起こされ、軍の助けを借りてようやく開業した。