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女性労働者の増加

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 昭和期に入ると電話交換手が増加し、事務員、タイピストなども出現してきたが、女性労働者の圧倒部分は出面であった。看護婦・派出婦は増加したものの組織化が遅れており、労働条件は改善されなかった。
 工場で女工を使用するのは、昭和初年まで製麻、製綱、古谷など数少なかった。しかし昭和十年代になると化学工場が増加し、女工が増加してきた。だが化学工場も労働条件が苛酷であった。新聞はゴム工場について、次のように報道している。
  ゴム工場の女工/ゴム工場女工は五時間も過労/札幌署で改善工作
ゴム製品の需要期に伴ひ札幌署では、生産に全力を挙げてゐる管内八工場約一千人の職工の就業状態について調査した所、一日の労働時間は朝六時から夜九時まで、休憩時間を除き約十五時間に上ってゐる有様で、しかも全職工の八割までが女工を使用してゐる関係上、工場法による規定の十一時間を五時間も延長使用し、同法の趣旨に抵触すること甚だしいものがあり、このまゝ放任する時は一般工場にも波及馴致の恐れがあるのでこれが改善に乗出すことになった(後略)
(北タイ 昭11・10・29)

 大日本麦酒札幌工場の製瓶工場をはじめとして、幼年工の使用も多く、頻繁に工場法違反が行われた。大正六年十月には、ある鉄工場で一四歳の少年を就労させ、死亡事故を起こしている。このような事故は十五年戦争末期まで続いた。印刷所は軒並み幼年工を使用していた。
 戦争が激しくなると、多くの職場に女性が狩り出された。出面をしていた女性も工場で働くようになった。少年工も、養成期間抜きで就労しなければならなかった。昭和二十年一月当時、札幌最大の工場は帝国繊維札幌工場で、労働者一四三五人を使用していたが(道会参事会資料)、その大半は女性であった。