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二つの社会大衆党

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 労働農民党の解散後、旧党員は再建運動を進め、新党組織準備会を組織し、昭和三年十月十七日、札幌支部が発足した。支部は十二月四日、山本宣治を迎え、共産党弾圧の不当を訴えたが、四年一月に高松宮来札の予備検束により、中心人物が検束されてしまった。日本共産党は、労働者の党は唯一共産党のみという考えから、労働農民党の再建に反対した。このため共産党系の人々を除いた左派の人々によって、労農党が組織された。札幌においても四年十一月十四日、労農党支部準備会が組織され、五年一月二十一日、支部が正式発足した。支部委員長は木田茂晴で、山内道夫が書記長となった。ビラをさかんに流したが、電灯料値下げ運動や家賃値下げ運動以外はあまり成功しなかった。支部員は三〇人ほどであった(札幌控訴院管内社会運動概况 第二輯)。
 一方、右派の人々は、三年十一月二十五日、川崎喜代治川瀬宏親を中心に社会民衆党札幌支部を組織した(北海道無産政党一覧表)。パン屋店員解雇反対闘争などを展開したが、労働者にはほとんど影響力がなかった。しかし部内の指導権を握った川瀬らは、四年秋になると活発な運動を開始し、失業反対運動を繰り広げた。五年四月には職業紹介所職員のボイコットを展開し、職員を辞職させた。五月には労農党支部とメーデーを共催した。札幌社会民衆党支部は、労農党との合併促進派で、支部を解消し、六年八月一日、全国労農大衆党札幌支部を組織した。指導権を握ったのは社民党系の人々であった。労農党系の人は発言力がなく、支部の書記長であった山内道夫は除名されてしまった。社会民衆党支部解消に反対であった末木重道は、社会民衆党にとどまり、七年三月社会民衆党札幌支部準備会を組織し、全国労農大衆党支部と対立した。全国労農大衆党支部は内部対立が続き、委員長菊地清の除名問題から活動不能となった。
 合法無産政党の大同団結をかかげて、七年七月社会大衆党が組織されたが、札幌では全国労農大衆党支部が壊滅していたので、社会大衆党札幌支部を組織したのは、社会民衆党支部準備会の末木重道らであった。当然、支部の活動は旧社民党系の路線で進められた。社会大衆党札幌支部は七年八月十日に組織された(社会運動の状況 昭7)。行動力がなく労働者のなかに不満が高まり、嶋田正策、岸孝一などが十一年四月、社会大衆党札幌支部準備会を組織し、労働組合法請願運動、大衆課税反対運動に取り組んだ。この準備会は、人民戦線運動の一環として結成されたものであった。二つの札幌支部があるという異常事態は、道内各地の社会大衆党支部の批判を招き、十二年八月三十一日、二つの支部が合併して社会大衆党札幌支部が新発足した。しかし新役員の顔ぶれをみると、ほとんどが旧準備会側の人間であったから、実際は左派の準備会が末木の支部を吸収合併したのであった。
 昭和十二年八月三十一日現在の支部役員は、次の人々であった。支部長 末木重道(旧支部側)、副支部長 岸孝一(旧支準側)、書記長 嶋田正策(旧支準側)、顧問 正木清(旧支準側)、高橋幸広(旧支準側)(自昭和十二年七月至十二月 社会運動情勢、札幌控訴院管内概況)。しかし左派の握った支部は、十二月の人民戦線事件で活動家を奪われ、石炭などの生活物資の値下げ運動を試みたが、昭和十五年に活動を停止した。