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学田地の経営

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 ところで、この西野学田地の小作経営はどのようにしてなされていたのであろうか。土地条件などから、明治期から昭和十六年の学田地解放にいたる間永住した小作人は少なく、大正末期には一戸分の小作権が七〇〇~八〇〇円から一二〇〇円で売買されていたという。
 大正五年の畑四町八反九畝一二歩の「土地貸借契約書」によれば、賃借期間は大正五年一月から七年十二月までの三年間で、「期間満了ト同時ニ継続契約ヲナスコト」ができ(第二条)、賃貸料は一年分が二四円四七銭(一カ年反当り金五〇銭で計算)で、毎年十一月二十五日までに納入することとされ(第三条)、七年まで据置であった(第五条)。ただし賃借人が「本契約ニ違背シ」「賃借地ヲ荒廃シタルトキ」は、契約が解約となることもあった(第八条)。
 学田地の小作人は、ほぼ三〇人前後で推移し、三~四人の代表者が選ばれて、役場との小作料の交渉などにあたる慣行が次第に成立していった(円山学田地小史)。
 こうしたなかで、昭和に入ると毎年のように小作料減免問題が生じるようになった。昭和二年十一月八日、藻岩村長が佐藤正三郎から古瀬猛二に交代した際の事務引継書には、「未決事項」として
一四、西野学田地小作料減免ニ関スル事項
本年旱害ノ為収穫皆無トナリタル部分ニ対シ、相当減免方小作人ヨリ陳情アリ。右ハ実地調査ノ結果、被害段別ニ対シ賃貸料ヲ全免スルコトニ委員会ニ於テ決定セリ。右ハ至急村会ノ議決ヲ経ルコトヲ要ス。
一五、本年更新シタル西野学田地賃貸料(一反歩十二円)ニ対シ十円ト低額セラレ度旨、小作人一同ヨリ陳情アリ。右ハ本日五日委員会ニ諮リタルニ、低減スルニ非スト決定セルヲ以テ、其ノ旨小作人ニ通知セラレタシ。

(藻岩村 事務引継書 三年十一月八日以降)


とあって、地主たる藻岩村の内部にも、村会の一部に小作料減免に反対する動きのあったことがうかがえる。というのは、この年から小作人側の要望により、小作料の納入方式が米納から金納に切替えられたばかりであったからである。昭和六年八月八日、再び古瀬村長から佐藤村長に交代した際の引継事項には、この間の事情が次のように述べられている。
三六、西野学田小作料調定(ママ)ニ関スル件
 西野学田小作料ハ最初米納ノ契約ナリシガ、小作人側ノ願ニヨリ昭和三年金納ニ改正セリ。然ルニ当時米価下落セシ為、納金十二円中十円ハ年度内ニ残金ハ翌年ニ納入セシメ、昭和四年度ニハ小作料ヲ十円ニ引キ下ケタリ。然ルニ昭和五年度ハ米価暴落ノ故ヲ以テ四斗ノ米納カ、十一月三十日時価相場ノ四斗ノ金納ヲ再三請願セリ。依テ村会ニ於テハ小作人側ノ意見ヲ斟酌シ、八円ニ引下ゲ納入ノ通知ヲ発シタルモ、小作人代表ハ爾後再三前言通ノ請願書ヲ提出シテ未納入トナレリ。

(同前)