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「娘の身売り」問題

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 農村婦女子の「身売り」は、道内でも以前からあり、貧困家庭では子女が一二、三歳に達するころから前借金をとって都市(札幌をはじめ小樽、函館、本州方面)へ奉公に出すものが非常に多かった。『北海道凶荒災害誌』によって子女の前借金等の状況をみると、女子は芸妓三〇〇円の前借金で三年間、酌婦前借金六〇円、報酬月一二円で一年間等の例があり、概して接客関係の業種に前借金が高かった。作女・女工・女中・子守等は前借金も少なく、女中月二円で一年間、女工八〇円で五年間等もあり、子守は七円で八カ月という例もある。これらは少額の前借金で働く年季奉公であり、接客関係の女性の場合、借金が返せず実質的に身売りになるものが多かった。
 昭和六年の凶作、七年の凶作・水害は、相当数の身売者を出した。七年の道庁の調査によれば、一四歳未満の児童で特殊業務従事児童(芸妓、女給、酌婦、遊芸稼等)が全道で一九二人にのぼったことがわかった(新北海道史 五)。
 八年十月一日、「児童虐待防止法」が施行され、これにより道庁においても「児童虐待防止法施行規則」を定め、一四歳未満の児童の保護および処分、児童使用禁止および制限などを法制化した。にもかかわらず、『北海道凶荒災害誌』によれば、九年中全道の農村子女の身売り状況は、芸娼妓七三五人、酌婦五七五人、女工六三三人、その他一七七〇人の計三七一三人にもおよび、その行き先はおもに札幌をはじめ東京、樺太、青森方面であった。
 十年になっても「娘の身売り」は改まらず、道庁の十、十一月の二カ月間で道内農漁村から九三六人もの娘が身売りされた。このうち芸妓五九人、娼妓六四人、酌婦九八人、女給二二九人、女中・子守三九六人で、その大部分が道外に連れ去られ、警察・役場・婦人会の手で救われたものが六五人にもおよんだ(北海道社会事業 45)。しかも、身売者の出身地を管轄警察署別に調査したところ、札幌・旭川のような都市からの流出者も多いが、渡島、檜山、後志、日高沿岸部警察署管内からも増加していることから、人身売買の主地域が農村から漁村へと移行したことを示していた(同前 48)。道庁や社会事業関係者は、このような人身売買の激増を人道上の問題としてとらえ、十年十月から婦女子身売防止運動を展開、道庁社会課では立看板、ポスター(写真)、ビラ等を配って趣旨の徹底に務め、十二月二日付で各警察署に婦女子身売防止取締に関する通牒を出し、下旬には「婦女子身売防止並ニ職業紹介要項」を決定した。これによって、婦女子補導委員会(各市町村長、警察官、職業紹介所、方面委員、婦人会等)を市町村単位に結成し、防止ビラの各戸配布、身売りの恐れのある婦女子の発見と保護、就職の斡旋、就職資金五〇円の貸付等の措置が講じられた。実際、市内白石町に住む二五歳の女性は売られる寸前のところを発見され、五〇円の就職資金を借り、住込み炊事婦の仕事を得、毎月二円五〇銭の返済をすることになった(同前 47)。当初、北海道社会事業協会が貸付機関となったこの制度は、手続が煩瑣のこともあって利用者は少なかったが、行政が介入することで「救はれた彼女達」も次第に増え、身売防止に一定の役割を果たした。

写真-15 婦女子身売り防止ポスター(北海道社会事業 47 昭11.3)