そういった政府の動向をしり目に、婦選運動家一行ははじめて北海道へ「婦選旗」を運んできた。婦選獲得同盟理事市川房枝、河崎なつ、石本静枝(のちの加藤シヅエ)等一行は、六年八月二十日の函館をふり出しに、二十二日小樽、二十三日札幌、二十四日旭川という具合に道内遊説を行った(婦選 昭和6年9月号)。札幌では八月二十三日札幌駅に安達一彦夫妻、田中夫人が出迎えた。講演会は札幌時計台を会場に午後七時から開催され、石本「産調運動の現状」、河崎「公民としての婦人」、市川「政治と台所」の演題ですすめられた。このうち河崎は、「婦人公民権といふのは、道、府県、市町村の自治体のくらしむきの相談に与ることの出来る権利で、婦人参政権とは国のくらしむきの相談に与る権利です。札幌市のくらしむきに札幌市の婦人が相談相手にならぬといふことは不分理じゃありませんか」と、公民権の解説から獲得すべき女性の使命を説いた(北タイ 昭6・8・25)。また市川は、「私達は男性と違ってゐるから、婦人にも参政を与へてくれと叫ぶのです。男性と女性が等しいものであるなら何もかも男性に託して置けはいゝのです。所が男女相反すればこそ、私達は進んで政治に関与し、男性の気付かない女性の気持なり要求なりを提出せねばなりません」と述べ、女性が公民権と参政権を得なければならないこと、公民・参政の両権とも遠からず得られるであろうが、女子の自覚も一層必要であることを強調した(北海道婦人新聞 第14号 昭和6年8月号 婦選会館蔵)。この日の演説会は「降雨を冒て聴衆は会場に溢れる程の盛況で、若い女性の多いのが眼につき、午後十一時過ぎ閉会した」(北タイ 昭6・8・25)。当日会場に集まった在札小樽高女卒業生・札幌高女職員河野ヒサ(久)子等をはじめ即会員になる者もいた(婦選 同前)。婦選運動家一行は、道内五市を遊説したが、最も盛況だったのは小樽で、「聴講者は八百名に及び、場外にあふれ」た(樽新 昭6・8・22)。しかし、婦選獲得同盟支部は北海道には誕生しなかった。凶作や不況で一層低下した生活水準が運動の生成を阻んだのである(北の女性史)。