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女教員会

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 第一次大戦中に女教員数はますます増加した。大正九年に第一回の北海道女教員研究大会開催の歴史を持つ女教員会では、女子師範の設立、産休、待遇改善等を要求項目に入れていた。うち産休問題は、全国女教員大会でも取り上げられ、十一年九月文部省訓令によって産休がまず獲得された。
 札幌女教員会が発足したのは十一年十一月二十六日で(北の女性史)、目的は女教員の修養と相互の親睦と地位向上を目指していた(北タイ 大13・9・21)。十四年全国聯合女教員会が組織されたのを受けて、十五年十月、札幌女教員会主催で女教員の地位向上をはかる目的で、北海道聯合女教員会の設立総会が開催された。総会での協議題として「女子師範の設立」「小学校教員の学力増進の方案如何」が取り上げられ、後者については講習会の開催や女児教育のあり方等が提案された(北タイ 大15・10・19夕)。
 以後毎年聯合女教員会は継続された。同会協議題を拾ってみると、第四回では、裁縫科への洋裁の導入の仕方や結核の蔓延から女教員の健康問題が(北タイ 昭4・9・20)、また第五回では、世相を反映して「レヴュウ」「ジャズ」が問題視され、性教育の必要性さえ説かれた(北タイ 昭5・9・19)。第一〇回では、不況のあおりから偏食児童の問題も取り上げられた(北タイ 昭10・10・19)。やがて、日中戦争以降は札幌市女教員会においても戦時色が濃くなり、明治神宮・宮城遥拝、国歌奉唱に始まり、かつての働く女性の地位向上とは程遠いものになっていった(北タイ 昭14・5・21)。特に、十七年八月札幌市で開催された全国女教員興亜教育研究会(北海道聯合女教員会札幌市女教員会主催)では、札幌神社参拝のあと、「皇国民錬成」や「婦道の修錬」が宣言・決議されている(北タイ 昭17・8・9夕)。