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アイヌ民族自身の主体的活動

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 昭和戦前期の札幌北海道のなかで、一定の政治的・社会的位置を占めていた。それに着目したアイヌ民族はこの時期、札幌で自らの信念に基づく主体的な活動を展開した。
 昭和五年(一九三〇)十二月には時計台楼上で、「アイヌの保護に関する演説会」が開催された(北タイ 昭5・12・14)。この演説会は近文アイヌの砂澤市太郎らが行ったもので、北海道アイヌ協会の機関誌『蝦夷の光』第二号には「堂々札都に乗込み、〔北海道旧土人〕保護法の不備を説いて改正の世論喚起に努」めたと記されている。これは大正十五年の「解平社」の結成に中心的役割を果たした砂澤らが「北海道旧土人保護法」を法的根拠として、土地の「無償給与」の実現を目指す運動の一環であったと考えられる(竹ヶ原幸朗 一九二〇年代アイヌ民族解放運動史論)。
 また、昭和九年九月には砂澤と同じく近文アイヌの川村才登が、札幌市内の中等学校や小学校で「亡びゆくアイヌ」などに象徴される、アイヌ民族への誤った認識を正すための講演を行った(北タイ 昭9・9・20)。この講演内容は断片的にしか報じられていないので、それを補完する意味で、川村が同年十二月に『北海タイムス』紙上に発表した同趣旨の論説の一部を紹介しておこう。
 川村が問題提起の素材として取り上げたのは、国定第五期の『尋常小学地理書』中の「アイヌ人とその住家」と題した挿画である。川村はこれに対して、「アイヌ風俗として八十年も昔のみすぼらしい挿絵のみ記されて、内地ではアイヌに対して何等知識ない子供にアイヌを見た事がない先生が、あのみすぼらしい絵を子供に見せた事、其所に恐ろしい誤解を生じないでしょうか」として問題点を提示したうえで、それが児童に「〔アイヌ民族が〕古来の風其のまゝで居るといふ古くさい考へを植ゑ付けて居るではないか」という、教科書批判を展開した。川村の論説は当時の「生活者」としてのアイヌ民族の姿を正しく描いていないことが児童の認識を歪め、それが差別や偏見に繋がることを具体的に指摘したものである。