細民街の子供たちは、貧困ゆえにまた不就学児童でもあった。札幌市では大正十五年五月、豊平小学校に夜学部を設置した(北タイ 大15・4・24)。専任教師として木下慧を任命し、久田校長が地理、歴史、理科を、嬉野フジ訓導が裁縫を教えた。児童二六人の昼間の仕事は、子守と留守居(男5、女10)、鍛冶屋徒弟(男3)、屑拾い(男2)、軍手女工(女2)、魚屋丁稚(男1)、家事手伝(男1、女2)であり、昼間の労働を終え夜六時から九時まで勉学に励んだ(北タイ 大15・6・6)。昭和二年には児童は三二人となり、九歳の子供が袋張で一日三銭を稼ぎ、そのほか飴売り、活字拾い、ゴム会社女工、軍手女工として働いた。一方、昼間通学する子供でも登校前の牛乳配達、下校後の納豆売りなど何らかの仕事に従事しているものが七〇人程おり、五~五〇銭の収入を得、全収入を一家の生活費にあてる子供さえいた(北タイ 昭2・12・24)。