札幌市の乳幼児死亡率の高さは大正末頃からじわじわと多くなりつつあった。大正十一年の場合、札幌市の人口千人比の出生は、三二・七五人であるのに対し、一歳未満の乳児の死亡は千人比二一・四五人という具合に、出生の過半数が死亡するといった最悪の事態を迎えていた。札幌市役所ではこのため、婚姻届の際には『結婚後の摂生』を、また出生届のあった場合には『分娩から離乳まで』の小冊子を市民に配布することとした(北タイ 大12・1・15)。市当局では乳幼児の死亡率が上がった原因を、都市生活の非衛生状態と母親の育児知識の欠如、他の経済上の原因が重なったものと認識し、事態を憂慮せざるを得なかった(すでに愛国婦人会道支部による児童健康相談所が無料で乳幼児や児童の健康診断を実施していたが、利用者は週一回で二〇人前後であった)。
このため、北海道庁や北海道社会事業協会では育児法展覧会を大正十四年七月末から八月にかけて札幌市をはじめ道内五市で開催、母子衛生、家庭衛生についての啓発運動に乗り出した。札幌市の育児法展覧会では、「賢い母、えらい母」の講演も行われた(北タイ 大14・8・7)。
昭和二年からは、全国一斉に五月五日を「乳幼児保護デー」とし、衛生講話のほかに優良児童選奨会、玩具絵本の展覧会、妊婦・乳幼児保護の社会施設の紹介宣伝につとめた。ここにいたって、乳幼児の保護のみならず、妊産婦の保護がはじめて声高に唱えられた(北タイ 昭2・5・6)。それと同年開始されたのが「赤ちゃん審査会」で、十月二十八日今井呉服店で行われた第一回には、一七〇人のなかから三人の健康優良児が選ばれた(北タイ 昭2・11・5)。以後、五月五日には愛国婦人会道支部と共催で乳幼児愛護デーが開催され、健康相談や育児用品の宣伝、玩具展、映画、講演会が今井呉服店や市公会堂を会場に開催され、盛会を呈した(北タイ 昭8・5・7)。その後の十四年十月の「興亜の赤ん坊大会」では、七七六人中四一人が表彰される(北タイ 昭14・10・28)という具合に、健康優良児の賛美はますます過熱を帯びていった。それより先十二年には、篠路村が愛育村に指定された。これは、女子青年団や婦人会等からなる愛育班が各戸を巡回し、妊産婦の取扱い、乳幼児の育児法、出産、産褥の手当等一切の知識・技術を指導し、農村部の母親たちに育児、衛生思想のレベルアップと、乳幼児の死亡率を下げるのが目的であった(北タイ 昭12・8・18)。