健康な赤ちゃんをと望む一方で、死産もまた少なくなかった。昭和四年の場合、出生の五・三パーセントにものぼり(北タイ 昭5・1・10)、札幌市ではむしばまれる母性の保護に迫られていた。そのため、貧困家庭の出産扶助や妊産婦の栄養指導が実施された(北タイ 昭9・11・15)。
十五年以後、人的資源の増強を目的に「産めよ殖せよ国の為」のかけ声がやかましく叫ばれはじめた。そして、同年から厚生省は優良多子家庭の表彰を開始し、同年十一月三日札幌市では一九家庭(子供数一〇~一二人)を選び、表彰状と記念品を授与した(札幌市事務報告)。これは露骨な「産む性」の賛美よりほかにない。
十六年五月一日、母性と乳幼児の衛生思想普及と指導をめざして衛生会館(北2西2)内に市立札幌母子保健相談所が開設された(北タイ 昭16・5・2)。
これより先十四年から札幌市では、各地域ごとに母性補導委員を設置、医師会、産婆会と協力して母性と乳幼児の保健指導にあたってきたが、十五年札幌市衛生組合の解散にもとづいて(後述)同組合を母体とする札幌市衛生婦人会も解散したのを契機に、十六年よりさらに増員拡充し、各公区より一人ずつ人選することとした(北タイ 昭16・6・3)。
厚生省の「産めよ殖せよ」は着実に出生人口増をもたらし、十五年の場合前年を一〇〇とすると、一一三となった(北タイ 昭16・7・18)。その一方、十七年、厚生省も母性保護の立場から妊産婦手帳規程を公布・実施し(7月13日)、これにより札幌市は同年十月一日より妊産婦手帳制を採用、優先的に物資の配給と保健指導を実施した(北タイ 昭17・10・22)。これは、「大東亜戦完遂し、東亜共栄圏の永遠の勝利発展を図る」といった大義名分のもとに、健康な赤ちゃんは強健なる母体からと、国家で母親を丈夫にするよう保護し、いつでも「お国のお召しに応じる事の出来る」赤ちゃんを産んでもらうためであった(北タイ 昭17・9・16)。しかし、篠路愛育村のように、確かに十六年は前年より出生数においては増加したものの、乳幼児の死亡率も上がった。これは、母体の過労、栄養不足等の要因が考えられた(北タイ 昭17・4・16)。十八年、道農会では「健兵の母」に栄養食をと、農家に指導したが(道新 昭18・3・4)、戦時下にあって食糧の絶対量が不足するなかで多くの子供を産むために、母体がむしばまれるのであった。