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「受験準備教育」の激化と学歴主義

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 昭和五年度からの入学志願者選抜に際しての筆記試問の実質的な復活は、小学生にそれまで以上の「受験準備教育」を強いた。文部省は四年一月に普通学務局長は通牒を発し、小学校での「中等学校入学準備教育禁止方」の徹底を指示したが、その効果は皆無に等しかった。昭和五年二月二十五日付の『北海道日日新聞』は「試験地獄近づく/準備教育の禁制を/冒す事に一生懸命」という見出しを掲げ、札幌市内「受験準備教育」の実態を活写している。
市内各小学校に就いて見ると『準備教育は一切まかりならぬ』との当局の訓令を無視して、全然放課後二時間乃至三時間児童に下準備をして居る学校もあれば、或ひは特に試験のための宿題を課したり、参考書、自修書を利用して児童の勉強にそなへるなど禁止の訓示を合法的に違反した準備教育が盛んに行はれてゐる。一方父兄側では「学校における準備教育廃止」の声におびやかされて家庭内で児童の過度の勉強を強制する風が盛となり、小学校の教師又は大学生等を家庭教師として依頼するものも多くなった。斯て小学児童の試けんのために苦しむことは依然のぞかれず、当局の訓令は、準備教育を単に学校から家庭にうつしただけで、当局の意図は見事裏切られてゐる。もっとも先生の中には、自分の教子を多数パスせしめて自慢の種にしたいと云ふ功名心にさそはれて熱狂的なをしへ方をして居る向も少くない。

 また、札幌市内では元小学校教員が月三円(一人)の謝礼を徴収し、自宅で数十人から百数十人の生徒を集めて「受験準備教育」を行うケースもあった(北タイ 昭4・12・18)。北海道庁視学・福井茂三郎はこうした私塾的な「受験準備教育」に対して、「何とも取締る方法がない」と語り(樽新 昭5・1・18)、半ば放任状態であった。昭和戦前期の札幌では冨貴堂から二種類の中等学校受験用参考書が出版されていた。いずれも各年度版で、『北海道及樺太入学試問の学び方答へ方』は「中等学校入学志願者唯一の手引」と銘打って、その年に出題された問題と模範解答を収録するとともに、「試問の受け方答へ方、学び方を説明し」たものである。『北海道樺太中等学校入学試問問題集』は上級学校進学への「最も良い入学準備書」として、過去二年分の問題と解答を収録している。

写真-11 『北海道樺太中等学校入学試問問題集』

 先の史料にある教員の「功名心」は別にして、父兄や児童を「受験準備教育」に駆り立てたは、「今日の如く中等教育を受けたかどうかが直ちに将来の経済生活問題と」深く結びついていたからである(札幌教育 第七三号)。これを裏付ける意味で、当時のサラリーマン層の学歴を札幌に本店を置く北門銀行の新規採用行員を事例として検討して見よう。昭和四、五年に「書記」とし採用された一三人のうち一一人は、大学や専門学校という高等教育機関の卒業生であった(北門銀行関係書類)。具体的には東京帝国大学、早稲田大学、慶応義塾大学などの大学と、小樽高等商業学校(六人)などの専門学校を卒業していた(同前)。これらの高等教育機関への進学には、原則として中等学校卒業の資格が必要とされていた。また、「書記補」としての新規採用者一七人も全員が北海道庁立小樽、旭川商業学校や札幌第一、第二中学校などの中等学校の卒業者で占められていた(同前)。父兄や児童にとって、中学校をはじめとする中等学校への進学はまさに「人生の成功者」への第一歩と位置づけられていたのである。
 札幌市小学校長協議会では昭和八年に「受験準備教育」の禁止を申し合わせたが(北タイ 昭8・10・13)、実効は上がらなかった。その証左として札幌市教育会の機関誌『札幌教育』には、その問題点と対策を論じた記事がたびたび掲載されている。九年に島太郎(札幌市医)は改めて「受験準備教育」が健康の指標となる児童の体重の減少に繫がっていることを指摘するとともに、それが健康上、看過できない問題であると警告した(東京日日新聞 北海道樺太版 昭9・3・10)。