大正十四年、札幌市内に障害児を対象とする教育機関が二校開校した。札幌では明治二十八年に大沢銀之進が私立北盲学校を創立して以来のことである。そうした試みは大正十三年四月から施行された「盲学校及聾啞学校令」の社会的な影響と見ることができよう。
そのうちの一校は小野義次、石黒義作、岸尾森吉の三人が主唱し、札幌市助役・増田彰が創立委員長となって、同年六月から開設準備を進めていた私立札幌盲学校である。同校は「盲人に普通教育を施し、生活に必要な学術技芸を授くる」ことを目的とし、初等部と中等部の両部を設置した(北タイ 大14・7・24)。特に、中等部には障害者の職業的自立に必要な技術を習得するための鍼按科(四カ年)、音楽科(五カ年)、別科(二カ年)を開設した(同前)。同校は賛助会員の寄附金によって運営され、生徒の入学料や授業料は無償とされていた。同校では十月の開校式に先だって、北一条西六丁目のローリー館で授業を開始したが、当初の生徒数は一五人であった。
もう一校は札幌師範学校を卒業し、当時、豊水尋常高等小学校訓導であった近藤兼市が同年七月に開設した北海吃音矯正学院聾啞部である。近藤は玉宝寺住職・牧野仰鍬の後援を得て同学院を設立し、口話式教育を行った。口話式教育はそれまでの手話式と比べて、健常者と自由に会話ができるメリットがあった。これは同学院の教育方法上の大きな特色であった。