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近藤兼市と私立札幌盲啞学校

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 近藤兼市は昭和二年六月、北海タイムス社社長・阿部良夫や札幌市教育課長・鈴木又衛の支援を得て、北海吃音矯正学院に前記の私立札幌盲学校を統合して、新たに私立札幌盲啞学校を創設し、校長に就任した。北海道帝国大学医学部教授・香宗我部壽は、学問的立場から聴話法の指導をするとともに、生徒父兄や市民有志による賛助会を組織して同校の事業を側面から援助した。昭和五年五月二十五日付の『小樽新聞』の報道によれば、同校では校長の近藤をはじめとする一八人の職員が一五〇人を超える生徒の指導に当たっていた。
 私立札幌盲啞学校は五年に、札幌市保導委員会協議会の建築資金募集の協力を得て(樽新 昭5・7・26)、南九条西一丁目に北海道札幌師範学校の旧校舎を移築し、同校の新校舎として移転した。その新校舎は「東洋に誇るの特殊教育機関で独り札幌のみでなく北海道の代表的施設」と言われていた(樽新 昭6・1・7)。「社会ノ実生活ニ適応スル」ための組織である実業部は同校独自の施設として、全国的な注目を集めていた。実業部の正式名称は大日本聾啞実業社と呼ばれ、印刷、洋服や和服の仕立て、ネクタイの縫製などの指導を通して、障害者の経済的自立を援助する授産事業を展開した(札幌市社会事業一覧 昭11)。

写真-17 私立札幌盲学校・聾啞学校(昭5)

 近藤は六年十二月、同校を「盲学校及聾啞学校令」の規定に基づいて、私立札幌盲学校と私立札幌聾話学校の二校に分離し、それぞれ文部大臣の認可を受けた。そして、翌七年三月には私立札幌盲学校中等部の鍼灸按科と別科は、「按摩術営業取締規則」と「鍼術営業取締規則」の指定校に認定された(北海道教育史 全道編三)。卒業生は昭和十一年の時点で両校合わせて、二〇〇人を超えていた。
 私立札幌盲学校の卒業生で組織した校友会の有志三五人は、日中戦争が勃発した十二年十二月から「マッサージ慰問団」を組織し、毎日交代で札幌陸軍病院定山渓療養所を訪れ、「戦傷勇士」への慰問を行った(北タイ 昭15・12・1)。