四年間のドイツ留学から戻り、北大で農業経済を講じていた早川三代治は、昭和二年の『北大文芸』一一号に「蝸牛他一篇」、一二号に「青鷸(あおしぎ)」、一三号に「命」、一四号に「阿呆」などの創作を発表し、一五号から二五号までに戯曲一〇篇を発表した。昭和九年の二七号から三三号までは、のちに『処女地』(昭17・12、元元書房)にまとめられる「鶴の生息地」を五回にわたって断続的に連載している。早川三代治は有島武郎に教えを受けた最後の学生であり、有島の没後は島崎藤村に師事して、『北大文芸』のほかに東京の雑誌『三田文学』『劇と評論』にも戯曲を発表していた。昭和初年代の単行本に、戯曲集『聖女の肉体』、随筆集『ラインのほとり』、短編小説集『青鷸』、長編小説『ル・シラアジュ』、詩集『エムブリオ』などがある。昭和十一年に北大を辞して小樽に戻り、地主生活をしながら創作活動に専念し、「土と人」五部作に取り組んだ。早川三代治の足跡をたどることで、昭和初年代の札幌を拠点とした文学活動の様相や、『北大文芸』で精神的支柱であった位置が確認できる。