ここで再び敗戦直後にもどる。第七師団の主力は沖縄戦などで大きな打撃をうけたが、道内には約九万五〇〇〇人が米軍の上陸などに備えて道東を中心に配置されていた。これらの人々が軍務を解かれる復員は九月三日からはじまり、二十二日までに完了したという。これに先立ち、八月十六日には応徴者・動員学徒・女子挺身隊の動員解除の通達が出され、三十日には在郷軍人会の解散も指令された。
実際にはこの復員や動員解除はあわただしくおこなわれたため、退職金や給与の未払いなどの混乱を生じた。その収拾の一つとして、たとえば、十月中旬の新聞には札幌陸軍被服支廠の「元従業員ニ告グ」などの広告が載る。また、この間、軍が保管していた大量の軍需物資が流出し、隠匿物資としてヤミ市場などで流通した。
十月三日の時点で、札幌地域には樋口季一郎中将を司令官とする北部軍(第五方面軍)を中軸に二七三四人(前掲 田口英男資料)が残っていた。米軍の進駐とともに、施設・宿舎の提供などの対応に追われた。北部軍司令部も接収され、ここには第三〇七混成部隊と第三三四経理洗濯部が入った。
樋口司令官が熊谷憲一北海地方総監とともに第九軍団長ライダー少将と会見したのは十月八日、第七七師団長ブルース少将との会見は十一月二日で、このとき「日本側から復員状況、軍需品引き渡し状況など」を、同三日には「飛行場建設・復員状況など」を説明したという(証言 北海道戦後史)。こうして接収が一段落した十一月二十日、北部軍は正式に解散した。
青森に進駐した第八一師団ではすぐに全県下の武装解除を命じ、その期限後も不十分と判断し、十月八日付で「県民所持武器蒐集ニ関スル件」を知事宛に発して、武装解除の徹底を求めている(前掲 占領史録)。おそらく同様な命令が北海道でも出たはずであるが、具体的な経緯は不明である。