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上原市長の就任

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 昭和二十年(一九四五)七月十六日、札幌市第三代市長三沢寛一の任期が終了し、市長退任となった。市会ではその前より詮衡委員会を組織して候補者の選定にあたり、七月二十五日の第三回臨時市会で上原六郎を第四代市長として推薦することを全会一致で決めた(六期小史)。内務大臣が上原を選任したのは八月十四日、上原が札幌市に到着したのは太平洋戦争終戦の八月十五日であった。八月十六日に初登庁した上原は、国体護持のため市民の先頭に立つと就任の所感を述べた(道新 昭20・8・17)。

写真-4 上原六郎市長

 敗戦を迎えた札幌市は、山積する諸問題への対応に追われた。なかでも市民の食糧確保は最大かつ緊急を要する問題であった。昭和二十年秋の農業収穫は全国的な凶作となった。市では、市長および経済課が食糧配給難を打開しようと道庁、食糧営団、統制会社、配給会社と折衝を行い、市議の中にも道内地方に赴いて食糧確保に奔走する者がいたが、配給の改善はなかなか進まなかった。十一月十五日、上原市長のもと戦後初めて開催された市会では、「市民主食糧確保、円滑配給方法ニ関スル意見書」が可決され、北海道長官に提出された。市は、同月二十二日、配給問題全般を協議するため札幌市出荷協力委員会を組織、開催した。一方市会は、二十三日、緊急議員会を開催し、食糧供出督励のため市議の出張を決定している。翌月十五日には出荷協力委員会が改組されて市食糧対策委員会が設置された。同委員会は十七日に、食糧事務所から本市への給付を指定されている三村(新十津川・妹背牛・神楽)に委員と公区代表からなる供米懇請班を派遣することを決定し、以後懇請班の派遣を続けていく(六期小史)。
 上原市長時代の札幌市は、食糧問題の他にも、占領軍との応接をはじめ、多岐にわたる課題や事務に忙殺された。戦後初市会から昭和二十二年三月までの八回の市会の議事から札幌市に緊急に求められていた課題を順不同であげれば、物資・エネルギー確保、急性伝染病対策、疎開跡地整理、戦災者・引揚者受け入れ対策、商工業復興対策、市バス・市電・道路・上下水道整備、学校整備、教員・市吏員人件費問題、住宅建設、治安などがあった。上原市長に財政課長として札幌市に呼ばれ、まもなく助役となった原田與作は、この時期を後に回想して、戦災を受けなかった札幌市は戦災復旧という大規模な工事などは必要なく、「一日も早く官民組織の戦時体制を解体し、戦時色を払拭し、市役所としては先ず平和時の一切の経常的事務を円滑に処理する体制を整えること」が人心安定上第一の要件であったが、「着任後一年位は無我夢中で緊急要務に取り組まなければならなかった」と述べている(原田與作 人生記録)。