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敗戦時の市政運営機関

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 敗戦時の市会は、昭和十七年(一九四二)十月のいわゆる翼賛選挙によって選ばれた市議によって構成されていた(定数四四人中翼賛候補の当選者は二八人)。敗戦後、一年半あまりの短い期間であったが、戦前に選出された市議によって八回の市会が開催され、市の予算編成や各種事業について審議・議決がなされたのである。この時期の市長・助役など市理事者もこの市会によって選出された。
 敗戦時の市政運営の機関には、市会のほかに市常会と市参与があった。市常会は昭和十五年の内務省訓令によって同年十月一日に設置されたもので、上原が市長に就任した時は、連合公区長一九人、その他三〇人(官吏として警察署長一人、団体代表として警防団長、教育会長、国民学校教育会長、在郷軍人連合会長、市会議長、議員会幹事一一人、学識経験者一八人)の計四九人が任命され、毎月一回または随時に開会されていた(市長引継文書・平佐助役から上原市長へ、昭20)。市参与は十八年三月の市制改正に基づき、同年九月市条例が制定され、翌年一月に設置されたもので、市常会委員一一人と助役一人が任命されている。敗戦後の市常会は二十一年二月の一回、市参与会は二十年六月、八月、十月、十一月、十二月、翌年二月の六回、開催された(昭20、21事務)。市長の直接公選や議会権限の強化を図った改正市制が二十一年九月二十七日に公布されるまでは市常会と市参与が、また翌年四月、統一地方選挙の執行と地方自治法の公布がなされて新たな市長と市議会が選出されるまでは、戦前の地方制度に基づいて選出された市理事者と市会が機能していた。