昭和二十二年(一九四七)五月、政令第一五号によって公区・連合公区は廃止された。その後、二十七年十月二十五日、占領の終結により政令第一五号は失効する。その前後の時期において、再び札幌市内各地域に様々な住民組織が作られていく。
その中でもとくに早い段階から復活の動きを見せたのが衛生組合である。衛生組合は、占領期に既に活動を再開しようとしていた。二十三年初頭には、「戦時中連合公区の一業務に包含された札幌の衛生組合がこんどは積極的な防疫と公衆衛生観念の高揚をはかるため自主的に復活することになり、今月中には結成を完了することになつた」と報じられた(道新 昭23・1・28)。この時には、市内ほとんどに設置され、連合組織も結成されている(道新 昭27・5・1)。
この時点で設置された衛生組合の中には、実質的に町内会の役割を期待して設置されたものもあった。例えば、この年に発足した新川衛生協会は、「戦争とは全くかかわりのない『衛生のことだけを扱う衛生組合』ということで占領軍に認めてもらい、実質的に町内会の業務を行った」という(新川開基百年史)。
しかし、結局これらの衛生組合も政令第一五号に抵触するとして、札幌市衛生組合連合会が同年八月三十日に、各地域の組合は三十一日に解散することとなった(道新 昭23・8・28)。
講和条約の発効を過ぎた二十七年五月一日、市はかつての衛生組合に代わる衛生協力会を、各地域に設置する構想を明らかにした(道新 昭27・5・1)。市長は、「隣組組織をそのまゝ復活しよう」とは考えていないとした上で、「衛生行政を円滑にすゝめてゆくためには市民の協力がどうしても必要」だと、その設置理由を述べた(同前)。実際に、この年の末には、「十五の地区衛生協力会」が成立していたという(道新 昭27・12・20)。
翌二十八年には、更に設置地区が増えて二二地区となり、「中央地区が未結成となつているほか全地区におよんでい」たという(道新 昭28・8・10)。人員では二二万人、約五万世帯が参加していた(広報 昭28・8・15)。市側は、協力会を積極的に利用する姿勢を明確に示していた。
衛生協力会以外の町内組織も、この時期に増加の傾向を見せていた。二十六年には、「一時全くカゲをひそめていた〇〇振興会、××親睦会と銘打つた町内組織が札幌でも目立つてふえはじめている」と報道された(道新 昭26・11・6)。また、翌二十七年末には、「振興会親和会、自活(ママ)協力会などと銘打つたものは数十団体におよ」んでいたという(道新 昭27・12・20)。このように、占領終結以前から実質的に町内会の役割を果たす住民組織が、各地域に見られるようになっていたのである。
ここに挙げられている振興会・親睦会などの他に、町内の街灯設置を目的に掲げる街灯組合も、早い段階から各地に設置されていた。例えば、宮の森には既に二十一年八月に明和街灯組合が発足していた。更に、政令により町内会などが禁止されたのと同年同月である二十二年八月には、これを改組し明和会という名称の町内会としていたのである(宮の森明和会50年誌)。
このように、この時期にさまざまな名称を用いて設置された住民組織は、実質的に町内会と同様の役割を果たしており、後に町内会へと改組されているものが多い。街灯組合と衛生組合の両者の側面を持つ住民組織が町内会へと再編された例として、北桑園地区が挙げられる。同地区には、二十四年六月に桑園北街灯組合が設置されており、これが三十年に桑園北街灯衛生組合に改組された。これが三十三年に至り北桑園町内会となったのである(北桑園 北桑園町内会設立五十周年)。
このような町内会の実質的な復活に対する市民の評価は大きく分かれた。「〝市政の円滑な運営の上からも絶対必要だ〟とする手放し歓迎論から〝こうした組織が生れることによつてなんらかの形で生活上の自由の束縛はさけられない〟とする全面否定論」の両論があったのである(道新 昭26・11・6)。また、広く市内に普及した衛生協力会に対しても、現職市議会議員の選挙母体となっているのではないか、との声もあったという(道新 昭29・6・18)。