昭和三十五年、札幌市の人口は五〇万人を超えた。四十五年には一〇〇万人を超えた。原田市長時代の一〇年余りの間に札幌市の人口は五〇万人が増加し、全国有数の巨大都市が誕生した。原田市政の三つの都市建設計画事業によって札幌市はその相貌を大きく変え、多方面で都市機能の拡充が図られた。
戦争による社会経済の停滞を色濃く残した時代にあった高田市政は、地方交付税などを国から受けていたとはいえ、限られた財源の下、健全財政を確保しながら自力で戦後復興と都市建設を実行していた。原田市政当初の「主要事業一〇年計画」は高田市政には見られなかったスケールの事業計画であったものの、やはり札幌市の自力による都市建設計画であった。しかし、これが改訂されて策定された二つの都市建設計画は、新産業都市建設という国の巨大な地域開発政策やオリンピックという国家的プロジェクトとリンクしたものとなった。原田市長は回顧録で、戦災も災害も受けなかった札幌市は「自力で近代都市への脱皮を図らなければならなかった」、「札幌を中心として冬季オリンピックが開催されることになれば、自(おのずか)ら都市施設整備のために国費の導入や、札幌市に対する特別の財政措置がとられるであろうと考え、その誘致に力を入れることにした」と述べている(人生記録)。原田時代の札幌市の成長は、まさにわが国高度経済成長時代の国家政策に結びついたことの結果であった。四十六年に原田市政は終焉を迎える。わが国はまもなくオイルショックの波をかぶり、低成長期に入る。