敗戦直後占領軍が進駐してくるのを迎えるために「ツウ・チトセ」や「ステーション・サッポロ」など「友好の道標」として札幌市内に英語の道路標識を設置した(道新 昭20・9・6)。この動きが敗戦後札幌での最初の国際的な活動といえるものであろう。その後進駐に伴い電話交換をスムーズに行うために、札幌電話局内でアメリカ軍少尉を教師に交換手へ英語の講習会を開いた(道新 昭20・10・10)。
進駐したアメリカ軍兵士は、クリスマスや復活祭には子供たちをキャンプに呼んでパーティーを開いた(道新 昭24・4・18、25・12・15夕、26・12・5)。札幌大谷幼稚園の園児たちは、マツクネア劇場(ママ)(松竹座)でアメリカ軍人たちに踊りと童謡を披露して喝采を浴びた(道新 昭21・1・17)。またアメリカ軍は二十四年には真駒内のキャンプクロフォードを開放し、日本人に見学させた(道新 昭24・7・15)。一方でアメリカ軍の将校と家族らが苗穂の酪農協同本社を見学したり、日本ビール(現サッポロビール)の工場を見学したりした(道新 昭24・9・19、10・9)。
この他ボクシングの交歓試合、札幌の植樹祭への参加など様々なことで交流した(道新 昭21・1・26、24・5・3)。アメリカ軍の積極的な交流活動の一つとして、札幌地域の駐留軍だけで二十八年六月迄の一年半に寄付金を二千万円余を集めた活動がある。そしてその寄付金をもとにして、祭日に孤児院の児童を招待したり、天使院の水田灌漑事業などに寄付し、さらに日本の学校で英語を教え、歯科軍医たちは市内や近郷の歯科衛生の改善運動を行い、十勝沖地震の被災者への義捐金、江別大火被災者への義捐金などいろいろな慈善事業に寄付するなどしていた(道新 昭28・7・11)。