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道路・橋梁の整備

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 戦争が敗戦で終了した後も、戦争中と同様に道路などの整備のための資材不足は続いた。『事務報告』や『事務概況』などでみると「労力、資材共に意の如くならざりし為所期の進捗を得ざりし」(昭20)、「主要資材たる「アスファルト」の入手不能のため砂利道修繕に設計変更」(昭21)などの表現がみられる。また昭和二十五年(一九五〇)になると「朝鮮動乱に伴う特需その他諸般の事情による資材、労務費の高騰に従って工事請負契約は不調の状況を著しく露呈した」ため設計変更などを行って事業を遂行しなければならない状況などがあった(昭25)。
 このような状況下で、二十一、二年は北海道地方費から補助を受けて道路の補修を行った。しかし上記のように一部はアスファルト不足のため砂利道補修に設計変更し、その他の砂利敷き補修を含め施行した(昭21、22事務)。『北海道新聞』では、半額を国庫補助を受けて積極的に施行することになったと報道している(昭22・6・9)。二十一年分は北八条線他一〇線、二十二年は舗装道路補修(場所不明)、西十一丁目線他八線が補修された。この中には二十二年進駐軍の緊急命令で補修された西十一丁目線緊急工事も含まれている(昭21、22事務)。二十四年度からはやっと道路整備が計画的に行えるようになり、北一八条線道路新設費、北五条線他二線の道路改良費、西七丁目線他四線舗装道路改修費、北一五条線他一一線道路造形費が予算化された。
 五年計画には舗装道路新設工事延長一七・五五キロメートルが総額一億九四三八万円と計画されている。他にも二十五年以降は道路整備関係では、舗装道路改修(改良)費、主要道路散水費、道路新設費、道路改良費などが計上されている。道路の舗装は計画的に行われ、二十八年には五年計画から独立して舗装道路新設八カ年計画として三十五年度までの事業が計画された。これにより当時五パーセント三四キロメートルでしかなかった舗装道路が、市内道路の舗装率が一三・二パーセントまで上昇するという。この計画は、自動車交通の激増、既設舗装道路との連絡、新設舗装道路の相互間の連絡および街の美観などを考慮して高田市長自ら当たったという(道新 昭28・3・14)。
 橋梁の架換や新設については、前巻で予算表から紹介した二十年の大覚寺橋、北八条橋、伏籠橋、円山新川橋の架換工事は、実際には二十一年の施工で、大覚寺橋は資材の調達が遅れたのか、二十二年に工事が完了した。また円山新川橋は二十二年完了である。二十年から三十年までの橋梁の新設はなく、ほとんど架換工事である(表4参照)。昭和四十六年度末で国道に五八、道道に七九、市道に四一三の橋がある(昭46統計書)。
表-4 架換橋梁名(昭和20~30年)
橋梁工事
20南9条橋,新川橋,創成川北4条橋,創成川北5条橋
21北8条橋,伏籠橋,大覚寺橋
22南5条橋,北6条橋,円山新川橋,大覚寺橋
23南7条架,南6条中ノ橋,北9条橋,北11条橋
24北13条橋,北17条橋
25南4条橋(*1),北20条橋仲の橋,南2,3条仲通橋
26北26条橋
27北4条橋,伏籠橋(*2)
28幌平橋,北5条橋,藻岩橋
29吟風橋,円山7丁目橋,北24条橋,対山橋,南14条橋,御料橋
30北9条橋,長栄橋
各年事務概況より作成。 *1は拡幅,*2は改造
31年以降については,各年の予算説明書を参照。