戦後の経済復興のための旺盛な資金需要に応えるには、戦前の一県一行主義は桎梏となったので、政府は二十四年十一月それを修正し、新銀行の設立を認めるという方針転換をおこなった。そこで二十五年中に二行(東北、大阪不動)、二十六年中に四行(泉州、北海道など)、二十七年中に五行(千葉興業、武蔵野など)、二十九年中に一行(富山産業)、計一二行が新設された。
北海道においても中小企業金融の円滑化を求める声は大きく、二十五年八月、旭川市で相次いで開催された全道中小企業者大会、全道商工会議所大会はいずれも満場一致で新銀行(商号は株式会社北海道銀行)設立の要望を可決した。その後、北海道商工会議所会頭を中心に設立の準備が精力的に進められた。
北海道銀行創設の着想者は、東北銀行の創立に関わった当時の大蔵省の一銀行課長であった。すなわち二十五年七月に「方法として、官製的銀行ではGHQ方面にもよくないから、全道の商工会議所中心の民間の総意を表面に打ち出すこと」として、当時の札幌財務局金融課長(既に北海道無尽の設立に関与していた)が新銀行の構想をまとめ、翌月の両大会における緊急議題案となったのである(堀田精 増補版銀行創造)。
北海道銀行設立趣意書によれば「戦時中の整理統合によって中央集権化の傾向を生じたために幾多の不便を忍んで来た道民は、終戦後新興産業の勃興と人口の急激なる増加により資金需要の増加するに及び道内に本店を有する新銀行の設置を強く要望するに至った」と述べ、新銀行は「中小商工業者の金融機関」であり、既設本店銀行(北海道拓殖銀行)とは競合せず、むしろ「両者相俟って本道の産業開発に寄与する」としている(北海道銀行三十年史)。
株式募集に苦戦するという曲折もあったが、二十六年三月、札幌市民会館における創立総会を経て、ついに北海道銀行(本店札幌)が誕生することになった。
二十六年三月十二日、本店が営業を開始した。四月からは全道各地に支店が続々と開設され、年内に本店を含め一挙に三八店舗網が出来上がった。翌年以降も支店開設が続き、三十年度までにさらに二九店舗が増えているが、このうち二二店舗は二十九年中に北海道拓殖銀行から譲渡されたものである(北海道拓殖銀行史)。従業員数は二十五年度末の四四人から三十年度末には九八五人と増加し、資本金は当初の一億円から二十六年七月の第一回増資(五〇〇〇万円)、三十年四月の第二回増資(一億円)を経て、三十年度末には二億五〇〇〇万円となった(北海道銀行三十年史)。
創業からほぼ一年たった二十七年三月末の業績は預金三二億八九四万円、貸出金二一億八〇九八万円、当期純損金二九一〇万円、累積赤字七七七一万円であった。当期純益が出るのは第四期(昭27・4~9)からであり、累積赤字が解消されるのは第七期(昭28・10~29・3)になってからである。三十年度末(第一一期)には預金一四二億六〇八三万円、貸出金一〇〇億四九一九万円、当期純益金五七二七万円となっている。この間、道内銀行における預金シェアは六・〇パーセントから一一・一パーセントへ、また貸出金シェアは五・四パーセントから一二・〇パーセントへと拡大し、「北海道唯一の地方銀行としての地歩をひとまず築いた」といえよう(北海道銀行三十年史)。