札幌における露店問題は、市が露店指定地を設けたあとも様々な形で噴出した。露店指定地のなかには立地条件が悪く商売が成り立たない場所もあり、昭和二十四年十月十五日には南二条西二丁目東側の露店商らが、二条魚市場前の南二条東二、三丁目を露店指定地とすることを市議会に請願している(道新 昭24・10・16)。また創成川畔でも二十五年九月ごろには、ふたたび多くの露店商の姿がみられるようになった。一方露店指定地の周辺住民や店舗業者からは、苦情や指定地変更の請願もだされ、二十六年六月十一日には東本願寺別院から南七条西八丁目の本願寺前通を露店指定地からはずすよう請願がだされている(昭26二臨会議録)。また同年十一月二十日にも南六条西九丁目の美登紀館通商工会の住民から、南七条西九丁目美登紀館前の露店の撤去を要求する陳情がだされた(昭26六定会議録)。市はこれらの場所が露店指定地であることを理由に請願や陳情を不採択としたが、その後東本願寺前の露店商は店舗を固定して住居にしていることが取り締まりの対象となり、結局これらが完全に撤去されたのは、市が市内の露店完全撤去に乗り出した二十八年四月末のことであった(道新 昭28・5・1)。
一方、国会でも道路幅をめぐり問題となったのが南四条疎開跡地の問題である。この地域は昭和二十年建物疎開の対象となり、戦後ここに幅四五メートルの道路をつくる計画が立てられた。しかしその後疎開跡地の所有権をめぐる問題、道路幅を三六メートルにする案などが浮上し、計画はなかなか進まなかった。ところがその間この一帯に露店が出没し、昭和二十四年一月ごろには六二軒の飲食店を中心とした露店が営業していた。市は二十五年一月三十一日までにこれらの露店に退去勧告をだしたが、いっこうに効果がなかったため、五月十五日には都市計画法、道路交通法、市街地建物法に基づく建物及び付属施設の撤去を命令し、五八軒はこれにしたがって六月六日までに自発的に建物を除去したが、四軒が残り、結局翌七日強制撤去が行われた(道新 昭25・6・8夕)。しかしその後も疎開跡地には屋台が出没し、退去した五八軒の露店商の正式な移転先の決定にも手間取り、臨時で新善光寺付近を露店指定地としたところ、南七条西一丁目の新善光寺西、南側に「新カストリ横丁」が形成された。そこで市は二十六年二月、これらの露店に南五条西四丁目の新京極マーケットへの移転を斡旋した。しかし移転した二七軒の露店商が資金不足を理由に新善光寺横の営業権を別の露店商に転売してしまったため、新善光寺横の露店が姿を消すことはなく、また新京極マーケットに移転した三一軒も食品衛生法に基づく営業許可申請の書類の不備がもとで営業停止処分となる(道新 昭26・3・20)など、その後もどたばたが続いた。
市議会では、このような状況のなか、露店商の救済と治安、そして都市美観の見地から露店問題を抜本的に解決することを目的に、二十五年九月二十六日「露店対策特別委員会」の設立を可決した(昭25五定会議録)。委員会では翌二十六年三月六日、指定地を再編成すること、露店店舗内に住む、飲食営業や鮮魚介営業をする、指定地以外で営業することを厳重に取り締まるなどが基本方針として決定され(道新 昭26・3・7)、また定例市議会でも、立ち退き後の露店商の「更生」にむけて融資を促進することなどが議案になるなど、露店問題の解決は、露店商を取り締まるだけではなく「更生」こそ必要であるという認識が徐々に浸透していった(昭26六定会議録)。