このように創成川畔の露店問題に端を発し、もはや都心部に露店を温存して商店街の振興を図る時代ではない考え方から(札幌市の商業的立地条件について・上 札幌経済 昭28・11)、市は露店商全廃を決定し、従来の露店指定地外で無許可営業をしていた露店商を吸収する「巡回露店市」と、露店指定地内で営業していた露店商に資金を提供して郊外の市場を経営させる「更生市場」の二本だての政策が進められた。市としては、昭和二十八年三月をめどに露店の全廃をめざしたが、巡回露店市の開催場所の確保ができず、また融雪期の悪路も重なったことから、南一条から南五条間の西二丁目を五月末まで暫定的に露店指定地として露店商を収容することとし、巡回露店市も南一六条西七、八丁目、市営薄野市場南側、豊平三条三丁目、鴨々川畔、南九条西一五丁目の五カ所で開始することとした(道新 昭28・3・28)。しかしその後も西二丁目で営業する一七〇人の露店商のうち六八人にしか移転の見通しがたたず(道新 昭28・7・18)、六月末、七月末と期限は延長され、市側が露店商を既存の「更生市場」に収容するなどして、撤去に一応のめどがついたのは十一月末のことであった(道新 昭28・11・26)。
一方「更生市場」の設置も順調には進まなかった。「更生市場」のなかには、終戦以来保全病院横で露店をつづけていた樺太引揚者四〇人が経営する高田屋デパート(北4西16)もあったが(道新 昭27・12・7)、市から資金融資を斡旋され、組合を結成して市の経営指導をうけ開店し、二十八年にはこのような「更生組合」は一九にのぼっていた(昭28事務)。しかし総工費の半分以上を市の融資斡旋でまかなった福屋簡易デパート(大通西23)では、露店出身者より一般業者の出店数のほうが多く(道新 昭28・6・9)、市の融資の妥当性が問われ、また二十九年二月に開業した花園市場も出店者は三人、北星市場も一〇人程度で、五月に開場予定だった三番館市場にいたっては市場体制が整わずに六月には開場中止、東札幌市場も土地取得のめどがようやくついた程度であった(昭29事務)。さらに「更生市場」の設置には地元商店街の反対運動もあったが、市としては「更生市場」の立地条件として、都心部に片寄らず、市全体の市場の分布状況、地域内の既存市場や小売店の分布状況、地域の消費人口、地域の物価差などを検討し、郊外分散を目標としており(美濃島正則 協同組合とマーケットの諸問題 さっぽろ経済 昭29・3)、むしろ地元商店街の発展につながるとして反対をしりぞけた。
このように「更生市場」の分散設置は、市内の地域間物価差の是正策としての側面もあったわけだが、地域によっては既に民間市場が進出しており、「更生市場」は既存市場との競争に加え、もともとが零細資本の集合であることから、仕入れや運転資金に支障をきたし、経営は苦しいのが現状であった。高田屋デパートも三十年十一月には一度解散し(道新 昭31・1・13)、市の支援もあって三十一年九月再開している。また全廃したはずの露店はその後も市内から全く姿を消すことはなく、四十年代にいたるまで市は対策に追われることとなった。