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拓北農兵隊

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 この計画を受けて北海道庁は、直ちに「北海道集団帰農者受入要領」を決定した。そして、北海道農会の協力を得ながら道庁内に北海道集団帰農者受入本部を設立し、入植地の選定・住宅の設営・営農指導等の準備に取りかかると共に、この事業の協力団体として戦災者北海道開拓協会を、また審議機関として戦災者北海道開拓協会を設け、東京都などで帰農者の募集を開始した。これらの帰農者は東京都長官から「拓北農兵隊」と命名されたが、七月七日付けの『北海道新聞』は、「拓北農兵隊へ温い戦友愛」と題する記事を掲載し、その第一陣二四五戸・一一四三人が六日に東京都を出発して石狩・空知両支庁管内に入植する予定であること、道庁は、これらの移住者に貸与する農地の選定や主食糧の配給、当面の生活費として一人当たり月額三〇円を六カ月にわたって補助することなど、受入れ町村や農業会等の関係者とその準備に忙殺されていることを報じている。結局、拓北農兵隊が現在の札幌市域に最も多く入植したのはこの第一陣のみであったが、前掲紙によると各町村の受入れ状況は次のようであった。
①札幌村―隊員は雁来の治水飯場・裂々布校・元村倶楽部・下苗穂校に計二三戸を分散収容する。但し、村民自身も五町歩以下の零細経営なので農地に余裕が無く、白石村の農地開発営団所有地に入地させる。
②琴似町―農地は三谷農場と稲積農場の未利用地一二九町歩を充て、そこに三間と一六間(四八坪)の共同居小屋三棟を建設し、一棟に隊員を八戸収容する。中央には共同炊事場を設け、すべてを共同で行なうようにする。
③手稲村―隊員は軽川駅で下車して北農牛舎と学校の仮宿舎に半数づつ入り、開拓地に充てられた下手稲前田部落の北農所有地に一棟五戸からなる四棟の住宅が完成するまでは、付近農家の援農作業に従事する。
④豊平町―札幌駅で下車し、貨物自動車に分乗して現地に入る。隊員の宿舎には石切山校と豊羽選鉱所土場校を、また農地には真駒内種畜場の国有未開地(五七〇町歩)を宛てる。
⑤白石村―隊員は豊平川右岸の大谷地にある農地開発営団の建物二棟(七〇坪と八〇坪)に収容し、将来的に自立できるよう農業技術を習得させる方針である。住宅は村として恒久的住宅に改造する予定であり、村内では割当畳の供出も終っている。

 この報道によれば、農兵隊の受け入れが最も進んでいたのは琴似町であり、他の町村は既存施設の再利用で対応しようとしていた。このようにして七月六日、東京都からの拓北農兵隊の第一陣が北海道に出発し、日本の敗戦を挟んで八月末までに、神奈川県・大阪府等から延べ九回にわたって一八〇〇戸・八九〇〇人が集団帰農した(北海道戦後開拓史)。この農兵隊第一陣は、札幌郡手稲村(杉並区から二一戸)・同琴似町(足立区から二一戸)・同豊平町(目黒区から五〇戸)・同札幌村(板橋区から二三戸)・同白石村(大森区から二三戸)の他、札幌郡江別町(世田谷区から三六戸)・空知郡栗沢村(葛飾区・江戸川区・北多摩郡から一四戸)・夕張郡角田村(品川区・蒲田区・荒川区・王子区・城東区から五二戸)に入植する予定であったが(青野正男 あら山 昭46)、なかでも世田谷区から江別町に入植した人々は「インテリ帰農部落」として有名になった(道新 昭23・3・29、太田恒雄 世田谷物語 平元)。しかし、先に触れたように現在の札幌市域にも多くの入植者があった。また受入れ側の町村にとっては、この時期は農繁期であることに加え準備期間があまりにも短かった。このため、農兵隊の入地後に受入れた地元側との間で多くの問題が発生している。