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琴似町の場合

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 明治初期の屯田兵の入植に始まる琴似町の歴史は、昭和期に入ると札幌の膨張によって町の大部分が札幌市の都市計画区域に含まれるようになり、札幌郊外の工場・住宅地帯として発展した。このため、都市化の影響を受けて、農地改革の際には農民運動の最も盛んな地域の一つであった。例えば農地委員の選出をみると、昭和二十一年の第一回選挙を経て、翌年の補欠選挙は無投票で選ばれていたが、二十三年二月になって琴似町農民組合主導による小作層委員のリコール運動が起こった。その背景について、二十三年二月二十七日の『北海道新聞』は「リコールを決議/槍玉に登つた農委会/琴似農民大会」という見出しで次のような記事を掲載した。
地主の土地不法取上げや、これにからむ町農地委員会幹部の違法行為を究明しようとする琴似町農民組合連合会主催の農民大会は、二十五日琴似劇場に耕作農民約三百人が参集して開催された。
この大会で昨年春中宮農地委員長が地主と結託して公然と農地のヤミ売買あつせんをやつたといういまわしい実例や、和田という農地委員が三反歩の小作地を主地主が耕作していることにして不法にも取上げたなどという幾多の実例が暴露され、結局腐れきつた農地委員会を改選しなければならないという土屋発寒農民組合長の緊急動議に満場一致リコール制断行を決議、早急全町農民に呼びかけ実現に移すことになつた。

 その後、琴似町農地委員会の不正問題に対する北海道農地委員会の現地調査を経て、遂には農地委員のリコール選挙にまで発展した。同年三月十九日付け『北海道新聞』は、この件について次のように報じている。
琴似で小作のリコール選挙
農地委員長の不正事実暴露に端を発し、道農地委員の調査が実施されるなど、大きな問題となつていた琴似町農地委員会は、十七日遂に小作層のリコール要求で成立、選挙管理委員会の指示をまつて三十日小作層のリコール選挙が行われることとなつた。
なお道農地委員会の同農委に対する態度は強硬で、小作層委員の改選だけでは実質的効果は期待できないとの理由から、一部はこの際同農地委員の改選を前提とする同農地委員会の解散命令を知事に要求する気配もみえ、二十六、七日ごろ開かれる道農地委員会の態度が注目される。

 この農地委員のリコール選挙の結果は、四月三日の『北海道新聞』に掲載された。すなわち「琴似町農地委員会小作層のリコールは三十日施行、つぎの諸氏が当選した。なお温井氏を除き他はすべて農民組合推薦である。温井定七(旧) 今井慶三(新) 百瀬正一(新) 端若松(新) 三浦辰之助(旧)」とあり、小作層代表の和田豊吉・今井銀一・箭川秀雄の旧委員にかわる百瀬・端・今井の三委員を始め組合推薦の委員が多数を占め、琴似農民組合の組織力が発揮されたことを伝えている。
 同町の農地買収に当っては、対象地域内に宅地分譲に近い比較的狭い面積の土地が多く、その延べ筆数は一万筆に近かった。このため農地の買収・売り渡しには困難が伴なった。農地買収は、当初昭和二十二年三月の第一次買収から二年間で完了する予定で計画を立てたが、実際には同年十二月の第四次買収で「百パーセント買収完了すべし」との指示が出され、農地委員会は膨大な事務量をこなさざるを得なかった。しかも発寒地区は琴似市街地に近く、また宮の森・二十四軒地区は札幌に勤務するサラリーマンへの宅地分譲地という特殊なケースが多かったので、買収後の異議申立・訴願が続出した。昭和二十二年度から二十五年度までの異議申立・訴願件数は三七七件を数え、札幌村の二七件・篠路村の四件(昭和二十五年度のデータは含まれていない)と比較しても極めて多い。また、農地返還要求の申請も八五件に達した。しかし、その大半は正当な理由がないとして棄却されている。

図-1 農地改革による耕作権の基準
農林省管理部『農地改革資料』号外(昭24.8)より