農地の第一次買収は二十二年三月二日までにとの指示があり、先ず北海道拓殖銀行所有の東月寒の小作地を買収した。以後十一月十五日までに全地買収の目標を立てて、十一月十日までに約二〇〇〇町歩を買収した。最も困難を極めたのが、小作地としては町内最大である簾舞の北海道大学第四農場(約八一一町歩)買収であった。この内約五六九町歩を管理替えするのに、第一回管理替えは二十二年六月に対しその解放は二十四年十二月である。この間に解放後の農地のあり方をめぐる議論が続いた。その論点は、大学側が農場小作地を研究用地として除外することを主張し、小作人の一部もそれに同調して農地委員会と対立したことである。
この問題について、二十三年四月二十日付け『北海道新聞』は「痩地貰うよりも小作で結構/北大農場開放に反対」の見出しで次のように報じた。「農地開放をめぐつて各地の小作人と地主との間に種々の紛争がひん発している折柄、これは逆に小作人側が農地買収に反対を叫び全面的開放を主張する道庁農地部との間に対立をおこしているという変つた問題がある」。この小作人とは、簾舞・富良野・角田・山部の北大農場に所属する人々で、「北大の指導をうけ、従来通り残りたいと要望、北大では残りたい者を無理に開放する必要がないと農学部の寒地研究に協力してもらおうということになつた」。簾舞農場の場合、約一八〇戸の小作人がリンゴ園・山林・畑・水田経営を行っていたが、「このうちには四十年来開放の嘆願書を三回も提出、自分達できり開いた努力を認めてくれと開放運動を続けてきた進歩的な小作人もあつて農地開放と同時に百四十戸の小作人は自作への移行を望み、残りの四十戸程度が現状維持を希望している」。現状維持派の五十嵐民治・遠藤喜三郎らは、「私たちとしてはだれにも進められたわけでないが、現在のように畑もやせ、肥料もない時にはぜひ大学の指導をうけて科学的に土地を改良し一割増産に貢献したいと思う。ことに大学の土地は個人小作地と異なり賃貸料も安くまたとりあげられる心配もないので安心して耕作できます」と語っている。しかし、道庁はこの小作地がそれまでほとんど研究に利用されてきた実績がないと批判し、北大が主張する「(農場は)研究のため必要なりとの理由は希薄」と反論している。
結局北大農場は、二十三年十一月、農林省・文部省、中央農地委員・北海道農地委員の現地調査を経て解放に向かうのである。その面積は、農場面積の七〇パーセント、農場貸付面積(約六四四町歩)の八八パーセントにあたっており、研究業務との関係で約七〇町歩の残置が決定した(前掲 北海道農地改革史・下巻)。