表-39 鉱山別生産実績表(昭和21年度) |
鉱種 | 鉱山名 | 精鉱中含有量 |
金(g) | 手稲 | 21,809 |
伊達 | 3,449 | |
沼の上 | 13,693 | |
音羽 | 1,500 | |
銀(g) | 手稲 | 2,115,618 |
沼の上 | 1,522,531 | |
音羽 | 3,600 | |
銅(kg) | 手稲 | 154,593 |
伊奈牛 | 126,930 | |
新下川 | 104,502 | |
幌別 | 47,626 | |
余市 | 22,080 | |
玉川 | 8,379 | |
伊達 | 6,682 | |
銭亀沢 | 6,254 | |
矢矧 | 814 | |
茂岩 | 246 | |
武士 | 200 |
1947年版『北海道年鑑』より作成。 |
また表40は道内金属鉱山中、金・銀・銅・鉛・亜鉛鉱山における在籍人員数をあらわしたものである。調査時点が示されていないが、二十二年四月前後と思われる。鴻之舞、静狩、千歳などの各鉱山はようやく再開にとりかかったころであった。しかし多くの鉱山では、「終戦以来、経営が休眠状態をつづけているため、戦争中約半数を占めた鮮華人労務者が退出してもなお労務は過剰というか遊休状態にあるため、山間では造材、海辺では製塩、山村では耕作などによって生計をたてる半失業状態のものが多い」('47道年鑑)という厳しい状況が続いていた。
表-40 道内金・銀・銅・鉛・亜鉛鉱山の在籍人員数 |
鉱山名 | 坑内 | 坑外 | 合計 | |
男 | 女 | |||
手稲 | 356 | 448 | 93 | 897 |
鴻之舞 | 56 | 247 | 46 | 349 |
静狩 | 12 | 102 | 20 | 134 |
千歳 | 7 | 44 | 15 | 66 |
今井本庫 | 12 | 10 | 2 | 24 |
沼の上 | ― | 13 | 10 | 23 |
伊達 | 10 | 4 | 4 | 18 |
1947年版『北海道年鑑』より作成。 |
原表では千歳の合計は65になっている。 |
表によれば手稲鉱山では、この時点で八九七人の従業員がいたが、二十二年六月からは四〇〇人に減少することになり、残りの人員は三菱系炭鉱へと配置転換されていった(道新 昭22・6・3)。また操業規模は月七〇〇〇トンから二〇〇〇トンへと縮小されたが、戦前の最盛期の五万五〇〇〇トンと比べると、その規模縮小ぶりはすさまじいものであった(手稲鉱山 操業記録 昭31・12迄)。
おそらく四〇〇人規模となったこの頃であろう。進駐軍が鉱山見学に来ている。「婦人接待官」に先導された三二人の軍人達で、彼らはケーブルカーに乗って坑内を見学したり、坑外の選鉱場を訪れている(北海道ものがたり)。
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写真-6 手稲鉱山 選鉱場内部 |
昭和二十四年一月、探鉱作業の結果、脈幅一・三メートル、品位は金一〇グラムトン、銀三〇〇グラムトン、銅七・九パーセントという高品位鉱が発見されたので、当時の新聞に「仕事始めのハッパで金銀がザクザク 手稲銅山に新鉱脈出る」と報じられたが(道新 昭24・1・18)、鉱山全体が息を吹き返すところまではいかず、二十五年秋には「休山同様の状態」(三菱鉱業社史)となった。
手稲鉱山事務所がまとめたものと思われる前掲「操業記録」によると、操業の基本的性格は、戦前の「探鉱(昭12まで)、産金(昭17まで)、産銅(昭19まで)」から、戦後は「終戦収束(昭24まで)、大縮小後始末(昭28まで)、上鉱掘り及び遺利回収(昭31まで)」と特徴づけられている。「大縮小後始末」時代の二十五年の出鉱量はわずか一五五トンであり(中本明 手稲鉱山調査史)、「休山同様の状態」であったことを裏づけている。
二十六年の出鉱量六〇二トンは小坂鉱山(秋田)に売鉱され、翌二十七年の六三〇トンは国富鉱山に売鉱された。二十七年には選鉱場、変電所等が解体され、二十八年には三ツ山竪坑捲揚設備が撤去された(操業記録)。なお二十七年春頃の従業員は五五人(うち職員六人)であった(北海道の金属鉱業)。
鉱山経営は二十九年七月、三菱から荒川鉱業株式会社に、さらに三十二年一月、千歳鉱山株式会社に引き継がれた。三十六年に新浮遊選鉱場が完成し、月七〇〇~八〇〇トン規模で操業してきたが、四十六年ついに閉山するに至った(日本の鉱床総覧)。