昭和二十六年六月十四日、豊羽鉱山労働組合が結成された。組合員数は、当時の従業員の約九割二三一人であった。同年十二月、初の賃上げ・労働協約締結要求を出し、二十八年九月十一日には賃金闘争で初の二四時間全面ストライキに突入している。
豊羽鉱山労働組合は、主として鉱山労働に従事する本山地区の労働者と、主として選鉱労働に従事する労働者とによって構成されていたが、両地区の対立から分裂し、三十二年十二月、組合を解散した上で、翌年それぞれ豊羽鉱山本山労働組合と豊羽鉱山石山労働組合を結成した。「対立の原因は主義などの相違ではなく、置かれている生産上の位置とか生活環境からくる〝ものの考え方〟の相違が、融合する機会をもたずそれぞれに発酵したためと見られ」(豊羽鉱山株式会社十年史)、そのような対立感情の累積上での「組織運営の限界」(豊羽鉱業所労働組合 しあわせを求めて)があったようである。
三十六年九月、両組合は二十九年四月に加盟していた全日本金属鉱山労働組合連合会(全鉱)を脱退し、日本金属鉱業労働組合協議会(鉱労)に加盟した。また三十七年四月、豊羽鉱山株式会社が日鉱と合併して日本鉱業株式会社豊羽鉱業所となるとともに、両組合は日本鉱業労働組合連合会(日鉱連)の傘下に入った。そして四十五年五月、両組合の並立状態に終止符が打たれ、統一が実現した。