敗戦後の札幌には、戦災者、引揚者、復員者が流入してきた。札幌市でもこの対策として住宅政策を行ってきたが、職も住むための住居もない人々が戦前からスラムを形成していた豊平川の河川敷に廃材を集めて小屋を建て居住する者が現れた。初めは東橋の右岸に出現したが、次第に左岸にも居住者が現れた。中にはヤミ市関係者もいたが、これといった仕事も持たない、「底辺」で暮らす人々であった。これらのいわゆる河原居住者に対し、二十四年八月、当時真駒内にいた進駐軍から、北海道庁と札幌市に対し、都市の美観・風紀上問題があること、進駐軍の雪捨て場に使用のため撤去を求める命令があった。これを受けて道と市は、同年十月東橋下流の左岸堤防敷地と、塵芥焼却場付近の市有地の一部を移転地と定め、家屋移転改修費として坪当たり三〇〇円を支給して、一五〇戸の移転を行った。北海道知事による撤去通知には十一月十三日を期限としていた。これが第一次移転である。
第一次移転終了後、今度は豊平橋上流の両岸及び幌平橋上流地域にかけて次々に仮小屋を建て居住する者が出現した。居住者の中には、生業として養豚業を営む者、雑品仲買業・商業・理髪業等を営む者も現れ、ヒロポン中毒者がたむろする地域となるなど生活環境が悪化し、札幌市としても何らかの対策を打つ必要に迫られた。このため二十五年度・二十六年度の二カ年計画で全戸移転が目論まれ、予算化されたが、移転候補地区住民の反対運動により実現には至らなかった。
第二次移転計画が持ち上がったのは三十年のことである。札幌市社会福祉協議会が、要保護世帯の更生運動に呼応して移転用地一〇〇〇坪の無償提供や小住宅八棟・四八戸の建築資金の交付申請をしたことを契機に、札幌市長も厚生省に生活保護法による宿所提供施設の設置を申請した。この結果、東苗穂町に宿所提供施設東明寮が開設され、これにより、従来からの生活保護施設静心寮・札幌明啓院に加え、東明寮の三施設となった。また低家賃住宅(現厚生住宅)建設も移転候補地住民との話し合いの結果了解され、琴似八軒と白石平和通りに各二〇戸ずつ建設された。これらの移転は三十一年から三十二年にかけて実施され、東明寮をはじめとする保護施設には、四九世帯・六四人が、また、琴似・白石の厚生住宅には、四〇世帯・一八五人が収容された。この他、自発的に移転の「自力転出者」が一〇三世帯・二一四人おり、その人々には一人二〇〇〇円、厚生住宅および保護施設入居者には一人一〇〇〇円の援護費が支給された(民生事業史 第一編)。
札幌市の河原居住者の移転問題は、これが最後のはずであった。ところが、二十四年の第一次移転で東橋下流の左岸堤防地へ移転した人々は家財道具からすべてをそのまま移転させていたので、再びスラム化するのも時間の問題であった。この地区に札幌と江別を結ぶ道道札幌─沼田線の道路建設計画がもちあがったのは、三十八年ころからである。新道建設理由は、初期には国鉄苗穂駅東側の踏切の混雑解消であったが、やがて札幌冬季五輪開催が決定すると、五輪道路建設に変化した。この地区には、四十四年段階で一四三世帯が居住していた(道新 昭44・7・22)。このため札幌市や札幌開発建設部と地区住民との話し合いが五年にわたって続けられていた。その結果、市土木車両事務所跡に改良住宅を新築して移転することがようやく決定した。改良住宅は、四十四年十二月鉄筋コンクリート四階建二棟、ブロック二階建三棟の計一〇四戸が完成(札幌市住宅年報76)、地区住民も収容された。これが最後の移転である。