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売春防止法の制定

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 政府は、昭和三十一年第二四通常国会で「売春防止法」を成立、五月二十四日公布した。ここに至るまでには、婦人団体によるねばりづよい売春禁止法制定運動が行われ、数度にわたっての国会への上程があった。二十二年九月一日新設の労働省婦人少年局は、労働大臣の諮問「婦人の人権を尊重し、その福祉をはかるため、売春問題に対する対策につきその会の意見を問う」に対し、売春取締まりの強化、売春禁止法の制定、売春婦の保護、更生対策、一般婦女子の転落防止対策等を掲げ、政府の確固たる方針の樹立を要望した。これに基づき、二十八年三月、第一五特別国会に参議院法務委員有志が発議者となって「売春等処罰法案」を参議院に提出したが、衆議院の解散で審議未了となった。
 つづいて、二十九年、第一九特別国会に衆議院の婦人議員が中心となって同法案を提出、第二〇臨時国会へ継続審議となったが審議未了。さらに第二一通常国会にも提出されたが、衆議院の解散で審議未了となった。解散による総選挙後の第二二特別国会(昭30・6)に提出された法案は、自由党と民主党との反対で一九一対一三二で否決された。同法案は、三十一年五月二日第二四通常国会に提出され、女性の地位の向上・人権意識の定着・人身売買の横行・風紀問題に対する世論の高まりの結果、ついに五月二十一日売春防止法として成立をみ、二十四日公布された。翌三十二年四月一日保護規定の施行、三十三年四月一日刑事処罰規定施行(全面施行)となった。同法は、結局単純売春を禁止せず、「ひも」の処罰規定もなく、特定者との契約(妾など)を売春と規定しないなど、売春業者の取締法に過ぎず売春行為の絶滅に期待出来ない「ザル法」と呼ばれたが、売春関係の非倫理性と社会悪が法的に確認されたことに意義があった。
 防止法が成立するまでの間、業者の反対は凄まじく、法制定の歴史はまさに業者との闘いの歴史でもあった。中でも、全国性病予防自治会と称する業者の団体の反撃は厚顔でかつ執拗をきわめた。反対の決議をはじめ、従業婦を組織して、生活権擁護ともっともらしい理由で反対運動に引き込み、さらに立法化阻止のために全国の業者一〇万人が自民党へ集団入党をはかり(世論の非難で立ち消え)、非常時対策と称して莫大な運動資金を集め、法成立後も実施の延期を策動し、現金を自民党に贈り、いわゆる売春汚職を引き起こす結果となった(日本婦人問題資料集成 第一巻 人権)。
 防止法案が第二四通常国会に提出された五月二日頃の札幌の場合、業者たちは平静を保っていた。札幌警察署の調査によれば、当時まだ旧白石遊廓地に四三軒、一二〇人、薄野の「青線」地帯に九〇軒、二九二人、市内全域の街娼一二六人の合わせて五三八人の従業婦がいた(道新 昭31・5・22)。この数字は、二十九年の改正「風紀取締条例」の施行、本道からの進駐軍の撤退といった他動的な要因により最盛期であった二十五年の二〇〇〇人に比較して四分の一に減少したものの、なおかつ売春のドロ沼から抜け出ることの出来なかった、いわばギリギリの状況下に置かれた女性たちを示していた。更生保護施設の面でも、完全施行の三十二年以降、市婦人相談室および一時保護所の設置が予定されているだけで、五百数十人の更生保護にあたるのにはおぼつかないといった声さえ聞かれた。しかし、市福祉事務所の相談係は、従業婦の更生相談にあたり、更生施設・市立中島ホームでは二十八年五月開所以来、三十二年三月はじめの閉所まで三年八カ月に扱った収容人員総計は二七八人であった。このうち、従業婦は九七人、転落の恐れのある女性は一八一人であった。保護更生状況でみると、結婚五人、就職四八人、帰郷一五七人、入院三九人、無断退寮者二八人、他施設への移管一人といった内訳であった(昭32事務)。婦人相談業務は、少しずつではあるものの実績を積み重ねつつあったといえる。やはり、女性の人権の確立の観点からも一地方自治体レベルではなしに国家による強力な法的裏付けが必要とされていた。