講和条約以後の札幌における最大の反基地運動は、三十年十一月二十一日の島松におけるオネストジョン試射反対運動であった。地元農民に加えて、全道労協の労働組合員や学生が参加し、米軍の島松(現北広島市内)演習場の桜森に結集した一五〇〇人が着弾地に座り込み、抗議したのに対し警官隊三〇〇人が出動し、デモ隊が後退した後、発射が強行された(全農連 戦後北海道農民運動史)。
三十三年十月、政府は、「警察官職務執行法改正案」を国会に提出した。この法案は、労働組合の事務所や集会・宿舎・旅館に立ち入りを認め、ビラ・デモを制限し、身体検査を可能にし、保護という名目で逮捕状なしの逮捕を可能にするものであった。全国各地に反対運動がおき、道内でも十月二十一日、社会党・共産党・全道労協・道学連など二八団体で「警職法反対北海道連絡会議」が発足し、当時北大教授の高倉新一郎が代表となった。二十五日には、大通公園で警職法粉砕道民大会が開催された。十一月十五日には三〇台の自動車パレードが行われ、産業会館では、清水幾太郎の警職法に関する講演会が開催された(全道労協運動史)。警職法は十一月二十二日に審議未了というかたちで廃案となった。
これより先、三十年七月の日本共産党六全協以後、極左冒険主義を否定した日本共産党を、体制擁護と批判する左翼集団が続出した。三十一年のフルシチョフによるスターリン批判は日本の左翼運動にも波及し、三十二年に結成された革命的共産主義者同盟(革共同)や、三十三年十二月、共産党を除名された活動家などにより結成された共産主義者同盟(BUND=ブント)などの下部組織が、札幌でも誕生した。安保条約改定期を控えた三十四年六月、全学連第一四回大会で北大ブントの唐牛健太郎が委員長に就任したことから、道学連や市内の学生会、青年層に対するブントの影響力が大きくなった。そのほか、反共産党系の革共同や革共同全国委員会、共産党の指導下にあった民主青年同盟(民青)の支持者も少なくはなく、さまざまな反体制活動組織は高校生の中にまで広がった(社会問題研究会 全学連各派―学生運動事典ほか)。