四十三年の東大医学部や日大紛争を機に、各地の大学で従来の学生会・全学連に代わる、さまざまなサークルや個人参加の全学共闘会議(全共闘)ができ、四十四年の「大学管理臨時措置法案」国会提出を機に、北大や道教育大・小樽商大・帯広畜産大などにも学園紛争の波が広がった。北大では四十四年四月、「クラス反戦連合」の学生たちが入学式予定会場を封鎖したのをきっかけにストライキや抗議行動が頻発し、その後も革マル派や全共闘による校舎封鎖が行われ、十一月には機動隊三〇〇〇人が導入され学生三二人が逮捕された(道新 昭44・11・8夕)。
札幌医大にも全共闘組織ができ、学園闘争は同時に反戦・反安保の街頭活動とも連動した。大学法案反対集会や反戦集会、街頭デモなどに対する機動隊の規制も厳しくなる中で、大学法案は四十四年七月二十四日に衆議院で強行採決され、八月三日、参議院でも審議省略の採決により成立した。翌八月四日、全道労協・社会党道本・共産党道委による抗議集会が道庁前広場で開催され、同日、強行採決に抗議する学生デモ集団に対し、道警機動隊は道内で初めて催涙ガス弾を使用した(全道労協運動史)。この街頭デモに参加した高校生への処分をめぐって、処分撤回を求める学園紛争が札幌南・札幌北・旭丘高校などにも広がり、札幌南高校では四十五年三月十日の卒業式当日、生徒四〇人が処分撤回を求めて演壇を占拠した。その後も生徒会による安保反対決議やストライキ、学校側の生徒処分・ロックアウトなどで紛糾し、八月には生徒たちのバリケード封鎖に対して機動隊が出動した(道新 昭45・8・15、北海道教育新聞 昭45・12・11)。
一方、四十三年二月、全道労協・道主婦協・社会党道本などにより、安保条約改定阻止をめざす「安保条約反対、平和と民主主義を守る北海道実行委員会」が結成され、四十五年六月までの毎月二十三日を統一行動日とした。四十三年六月二十三日には札幌でも四〇〇〇人による集会が開かれ、同年の「一〇・二一国際反戦統一行動」には、札幌で八〇〇〇人による道央集会を開催した。また四十四年六月二十三日の「札幌全道集会」には八〇〇〇人が参加したが、共産党との共闘は、反戦青年委員会や反共産党系学生団体の参加をめぐって意見が分かれ、分離開催が多くなった。四十四年の「一〇・二一国際反戦統一行動」の道央集会も社・共統一はならなかったが、全道労協・札幌地区労・社会党共催の集会には八〇〇〇人が参加し、さらに、四十五年になると、市内では連日のように各団体による集会や街頭デモが続いた(全道労協運動史)。四十五年の六月二十三日、道内では一六〇カ所で一七万人を超す集会・デモが行われ、札幌でも市内中心部が労働者・学生三万人のデモ隊で埋まり、随所で機動隊との激突が起きたが、同日、日米安保条約は結局、自動継続となった(道新 昭45・6・24)。
条約自動延長後の四十五年「一〇・二一国際反戦統一行動」は、中央では社・共の一日共闘による集会が行われたが、北海道では、反戦青年委員会の参加をめぐって意見が対立のまま分離開催となった。全道労協・社会党・道反安保三者共催の全道集会は、約四五〇〇人を集めて道庁前広場で行われ、大通西六丁目広場での共産党系の集会には約四〇〇〇人が参加し、ほかにベ平連系(大通西七丁目、約一〇〇〇人)、革マル派(北大、三五〇人)、全共闘系(中島公園、四〇〇人)なども集会を実施し、街頭デモも行われた(全道労協運動史)。