札幌市では昭和二十年(一九四五)七月十四、十五日に丘珠飛行場の隣接農家が機銃掃射をうけるといった多少の空襲をうけたものの、他府県に比べればその被害は微少であった。しかし中学校や高等女学校の生徒は、連日の勤労動員によって授業をほとんど受けられなかった。また国民学校の生徒も、少なからず疎開を強いられていた。
二十年一月に比べて七月には、札幌市内の児童は約二〇〇〇人減少したが、その多くは縁故疎開によるものであった(道新 昭20・8・1)。道庁では八月一日付で、札幌市など主要四都市の児童を含めた人員疎開を「強力勧奨」として計画した(道新 昭20・8・12)。札幌市はこの趣旨に従って縁故疎開を奨励したが、この時点での疎開状況は、夏季の間だけの一時的な移動も含めて国民学校「大体一校について在籍の五分の一程度」(道新 昭20・8・13)であった。この疎開について『道新』は「むしろ錬成のいい機会」(同前)であると見出しをつけている。
札幌市および周辺町村には、本州などからの緊急疎開がなされた。拓北農兵隊がその端的な例である。入植者の中には、移住先が決定せず、国民学校の運動場に仮住まいした者もあらわれた。敗戦後の十二月まで軽川・新川・札苗国民学校では運動場を占拠された。