ビューア該当ページ

周辺部の小学校の新設―白石地区を事例として

791 ~ 795 / 1021ページ
 それでは周辺部の人口増と学校新設の推移はどのようになっていたのであろうか。ここでは、もともと白石小学校の通学区域であった地域の学校新設の変遷を追いながらみてみよう。白石小学校は、明治五年に当時の白石村に最初に創立された学校である。昭和二十二年、新学制に伴い白石村立白石小学校と改称された。当時の通学区域は、西はほぼ旧定山渓鉄道あたりまでで東は月寒川まで、南は現在の東北通までで北は東米里との境界部分あたりであった(図2-①参照)。二十五年七月に白石村は札幌市と合併し、校名は札幌市立白石小学校となった。翌年には東園小学校が開校し、横町地区の児童五七名が移籍した(図2-②参照)。

図-2 白石地区小学校の変遷

 三十年代に入ると農地の宅地化が大幅に進み、国道一二号線などの道路の整備も行われた。白石地区では二十七、八年ごろに現在の東札幌一条五丁目に市営住宅一三戸が建てられ、三十年には本郷通に市営住宅が建てられた。その後、三十一年二月に「白石地区区画整理国道改修促進期成会」が発足し、宅地化・道路整備が本格的に進められた。区画整理は三十二年から三十七年の白石本郷地区を皮切りに、白石南本郷・白石神社西(昭36~38)・白石本通北(昭37~41)・白石駅前(昭36~42)などと進んだ。国道一二号線の舗装も、三十一年に月寒川あたりまで、翌年には厚別川まで進んだ。同時期には千歳線をまたぐ高さ六メートルの陸橋も建設され、国道の流れがよくなった。
 以上のような宅地には、札幌中心部からの転入者、とくに持ち家を取得したいサラリーマンとともに、三十年代後半には道内炭鉱の閉鎖に伴う離職者が転入した。また三十二年ごろには横町地区の西南側、すなわち東札幌駅から旧千歳線にかけて工場が設置され、小工業地帯へと変化した。なおこの地区は、白石地区ではじめての市営バスが運行した地域である。
 この時期に、白石地区の小学校は南の地区から北の地区へと新設されていった。三十三年に南郷地区に本郷小学校が新設された(図2-③)。白石小学校より移籍した三二六人、五学級編成でスタートした。翌年にも通学区域変更(図2-④)に伴い、さらに五四九人が移籍した。三十八年には本郷小学校の西側地区に南郷小学校が新設された(図2-⑤)。開校当時の児童数は六九一人で、白石小学校より二九五人、本郷小学校より三九二人が移籍した。さらに三十九年には、南郷小学校本郷小学校の北側に本通小学校が建設された(図2-⑥)。この地区は地元農家の土地解放によって三十五年ごろより急激に発展した地域である。白石小学校より二八八人、本郷小学校より二二四人が移籍し、その他の地区の転入もあわせて五一三人で開校した。翌四十年にも、南郷小学校の西側に東札幌小学校が新設された(図2-⑦)。東園小学校より三八〇人、白石小学校より五〇人、あわせて四三〇人の児童数で開校した。東札幌小学校は、札幌市でもっとも早い時期のコンクリート造りの校舎の一つであり、創立当時多数の見学者が訪れたという。四十二年には本郷小学校の東側に東白石小学校が新設された(図2-⑨)。本郷小学校より四一一人、大谷地小学校より一二五人、あわせて五三六人、一五学級をもっての開校であった。さらに四十七年には、白石小学校の西側に西白石小学校が開校した(図2-⑪)。白石小学校よりの四六八人の移籍者、一三学級での開校であった。
 北郷地区は、白石地区の中では比較的あとから宅地化が進んだ地域である。宅地組合が結成されたのが三十四年であり、毎年一二〇から一三〇戸の契約がなされていった。人口は徐々に増加し、四十年には約一万人に達した。当時、児童は白石小学校まで通学していた。しかし函館本線の踏切を渡らなくてはならず、三十九年には子供が列車に触れて死亡するという事故も起こった。四十一年、ようやく北郷地区にはじめての小学校が新設された。北郷小学校である(図2-⑧)。白石小学校から六四四人の移籍者を迎えて、一六学級での開校であった。北郷の西地区の区画整理は四十年に区画整理組合が結成されたのをきっかけに始まった。すでに始まっていた宅地組合の発展との相乗効果によって、人口は大幅に伸びていき、四十五年には、一万五〇〇〇人を突破した。そのような中、北郷地区で二番目の小学校である北白石小学校が四十四年に開校した(図2-⑩)。北郷小学校よりの移籍者四五五人を迎えての開校であった。なお、この時期に月寒川の東側が開発され、北郷小学校ならびに北白石小学校の学区に編入されている。
 以上みてきたように、白石地区の学校は人口の社会増に伴い新設されていった。その地域性をみれば、国道一二号を中心に宅地化が進み、そこから南へ、そして北へと学校が増えたのである。