周辺部の児童数増大に対して札幌の中心部、特に現在の中央区では人口が頭打ちになり、児童数が減少した。そのため、市ではこの地域の学校の統合を企てた。対象となったのは、中央創成・西創成・大通・豊水・東・東北・曙・桑園・二条の小学校であり、この地域では三十五年度に一万三〇〇〇人だった児童が、三十八年度には九〇〇〇人に減っていた。北海道札幌星園高等学校の独立校舎設置問題や新庁舎建設と絡めて市議会で問題となり、市教委は三十八年八月五日に札幌市義務教育学校整備統合審議会(審議会)を発足させた。一方関係する学校関係者やPTAは、学校の存続を求めて三十八年に二件、翌年にも一件の請願を出している。
市議会文教委員会でも、市内小中学校整備統合調査委員会(委員会)を三十八年十月四日に設置した。審議会が中央創成小学校と大通小学校との統合案を答申したのに対し、委員会は中央創成小学校と西創成小学校との統合、大通小学校と二条小学校との統合、さらにその後に東小学校と東北小学校を東小学校の位置に統合し、中央中学校も同所に移転する、幌西小学校と山鼻小学校をそれぞれ移転するという答申を出した。この二つの答申については、審議会案は「新庁舎建設をスムーズにするための手段でしかない」(毎日 昭38・10・28)と、委員会案は機械的な再配置であるとともに、移転や用地買収、新校舎建築など「多大な財源を要する」(同前)という批判もあった。
市教委は、三十九年一月二十九日の文教委で、中央創成小学校と西創成小学校との統合という方針を明らかにした。両学校関係者の陳情や要望に対しても、市教委として「最大の努力を払う」と確約した(十一期小史)。三十九年九月十七日に補正予算が議決され、両校の統合は本決まりとなり、創成小学校として新たな発足をみることになった。
その後さらに都心部の学校統合はすすみ、中学校も含めた統廃合がなされた。四十三年九月一日には、一条中学校と陵雲中学校が統合され、中央中学校として開校した。また東北小学校と東小学校も統合され、四十四年四月七日に中央小学校として開校した。