昭和三十年代におけるPTA活動の特徴の一つは、連合会を通じて行政と組合の折衝役の働きをしたことである。三十三年九月の勤評反対を掲げた北教組のストライキに際しても、北海道PTA連合会が仲介役を果たした。また三十六年の中学校学力一斉テストのときも、札幌市中学校PTA連合会は市教委と北教組支部に対し「両者が誠意を持って、円満妥協するよう最後まで努力する」とし、北教組支部に「混乱が起こることのない」ように申し入れ、市教委にも「警察権の要請などによって不祥な事態が発生しないよう強く要望」した(札幌市P・T・A15年史)。また陳情・請願を通じて、二部授業といった不正規授業の撤廃や老朽校舎の改築などの運動もすすめた。
しかしPTA本来の活動は活発化せず、旧来の教育後援会的な性格を払拭することはできなかった。PTA会費は値上げを続け、三十一年九月に市教委は「学校寄付は原則として行うな」という警告を発した(道新 昭31・9・5)。三十五年三月、市教委はPTA会費値下げを校長会に指示した。当時のPTA会費は小学校で月額平均一〇〇円、中学校で一三〇円と他都市にくらべて著しく高かった。市教委では小学校一五円、中学校二〇円の値下げ分にあう一五〇〇万円を新年度予算として計上した。この対策は八年間続けられ、四十三年にはPTA会費は、小学校平均六〇円、中学校平均七〇円となった(道新 昭43・2・16)。
会費とともに問題となったのは、学校寄付金である。三十八年七月には市議会で「やむを得ない寄付集めについては〝任意〟であることを明記した教育長名の文書を添えるようにすべきだ」という要望事項が可決された(道新 昭38・7・14)。さらに市教委は四十二年三月二十三日、学校寄付を式典経費以外は認めないという通達をだした(道新 昭42・3・24)。しかし「第二のPTA会費」といわれた学校徴収金問題も重なり、問題は続いた。四十五年度の段階でも「PTA予算は小・中学校ではPTA本来の活動に五〇パーセント以上使われているのに、高校ではわずか二一パーセントにすぎない」という報告が道教委によってまとめられた(道新 昭46・5・1)。