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高校増設運動

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 昭和三十年代に入り、高校への進学熱は高まりをみせていった。三十一年三月卒業生の高校進学率(定時制を含む)は、全道で四八・八パーセント、札幌市で七四・八パーセントであったが、三十五年三月の卒業生では全道で五七・一パーセント、札幌市では八〇・三パーセントに上昇し、さらに四十年三月卒業生では全道で六六・三パーセント、札幌市では八四・二パーセントに達した(北海道統計 第126・173・235号)。特に札幌市は全日制普通科の高校が少なく、二十年代から北海道一の入試激戦地区となっていた。例えば三十二年度でみるなら、全日制普通課程の高校が四校で三七学級、定員一八五〇人、職業課程の高校が二校で一二学級、定員五二〇人であるのに対して、志望者は五六七〇人であり、定員の二・三九倍であった。これは前年度の二・二倍をかなり上回っている。道内の他地区をみると、函館地区で競争率一・七二倍、旭川地区で一・六五倍であった。札幌だけが「ズバ抜けた高率」(道新 昭32・3・6)となっており、学校を二校新設して函館地区と同等程度という状況であった。この年、札幌市内でいわゆる中学浪人が六〇〇人を上回ったという記事もある(道新 昭32・5・19)。道教委市教委も学級増などで対応しようとしたが、進学難はなかなか解消されなかった。市教委が、まず義務教育の不正規授業の解消を最優先としていたこととも関係があろう。
 そのような中、「新しい高校を作ろう」という運動が全市的な動きをみせることになった。三十二年五月十九日、公立高校新設促進期成会が結成総会を開催し、これを受けた形で市議会文教委員会も、明春四月に開校へという請願を採択し、積極的な運動に乗りだした。期成会は道や市、また直接高田市長の公宅を訪れ、六〇回余りの陳情などを行った(道新 昭32・12・3)。財源問題などによる道教委との交渉分裂の経過を経て、十一月二十九日に市長は市立高校の建設を言明した。市長はそのうえで「高校を明春開設するために義務教育へのシワ寄せがきても仕方がない」(道新 同前)といった発言も行った。新設高校の名称は札幌旭丘高等学校となり、三十三年四月、啓明中学校校舎の一部を借りて開校した。しかしその後も進学熱の高まりの中で、札幌地区の進学難は続いた。道教委市教委は父母の増設運動に後押しされて高校を増設していった。たとえば三十七年一月設立認可の市立の仮称札幌元町高等学校(四月に札幌開成の名称で開校)がそれに当たる。また道では、同年十一月に札幌琴似工業高等学校、翌三十八年十一月に札幌東商業高等学校を開校した。さらに父母側は、北教組や労働組合とともに、三十七年十月十八日に高校全入運動推進協議会を結成して、高校増設運動に乗りだした。四十年十二月には道立の札幌啓成高等学校が開校し、四十七年四月には道立の札幌北陵高等学校が、四十八年四月には市立の札幌藻岩高等学校が開校した。