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札幌オペラ研究会の輝き

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 総合芸術であるオペラが、声楽、器楽の各ジャンルが活発化していった上に乗る形で、この時期にひときわ活発に動いた。札幌オペラ研究会、通称オペ研の活動がそれで、牽引役(けんいんやく)の山本普に率いられてのものである。

写真-8 山本普(道新 昭35.8.21)

 山本は昭和二十六年に北大教育学部助手として札幌に来た。専門は音楽ではなく特殊教育だったが、東京での学生時代にオペラにかかわったことがあり、札幌でもオペラ活動に打ち込んだ。札幌オペラ研究会の結成は二十八年七月で、北大音楽科で学んでいた伊藤壱朗と共に仲間を募り、十月には市民会館(旧公会堂)で初公演にこぎつけた。
 作品は山本が東京での学生時代に上演したことのある小林幹夫作曲の「ゼフィロス」で、合唱団には前年の「第九」出演者たちと山本が指導に行っていた北星女子短大の学生たちが参加した。
 花の精役の女性陣は手持ちのスカートやブラウスに飾りを付け、虫の精役の男性陣はももひきを後ろ前に履いて、後ろ側のボタンはリボンなどで隠してもらうという〝手作り〟の舞台だった。
 管弦楽は、北大の二団体が合同で受け持った。そのうちの一つである北大交響楽団は、大正時代から学内で対立関係にあった札幌シンフォニー・オーケストラと文武会管弦楽団が戦時中に統合し、新生の団体として歩んできていた。もう一つのソナテ会は、それと並行して戦後新たに北大に生まれていたもので、両楽団はこれを機に北大交響楽団に一本化し、川越守指揮のもとで活動を続けていくこととなった。
 札幌オペラ研究会は、三十年二月には第二弾としてマスカーニの「カバレリア・ルスチカーナ」を上演した。さらにメノッティの「電話」「泥棒とオールドミス」、モーツァルト「バスティエンとバスティエンネ」、フンパーディンク「ヘンゼルとグレーテル」などを取り上げた。これらは、三十二年四月から電波を出し始めていたHBCテレビでも取り上げられ、年に三本を放送したこともある。札幌オペラ研究会はまた、東京から来演した藤原歌劇団や二期会によるベルディ「椿姫」やビゼー「カルメン」、プッチーニ「トスカ」などのコーラスも受け持った。
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写真-9 札幌オペラ研究会 1回目の「カバレリア・ルスチカーナ」

 華やかな活動が続いていた札幌オペラ研究会の最後の公演は、三十九年三月に市民会館で上演した二度目の「カバレリア・ルスチカーナ」だった。この年四月に札幌大谷短期大学に音楽科が生まれ、そこに集まった声楽家らにより二期会札幌分室(現北海道二期会)が誕生した。この時期にオペラ研究会が活動を停止したことは、オペラ活動の主役の座が、アマチュア的な色彩が濃かったオペラ研究会から、より専門性の高い「プロ」集団に移っていったことを象徴していると見ることができよう。