本章第六節で後述するように、昭和三十三年、全道の各文化団体相互の連絡協調を図ることを目的に、北海道文化団体協議会が設立された。この協議会の活動の中には、北海道文化集会、講演会、研究会等の開催があった。とくに、北海道文化集会(以下文化集会と略す)は、三十四年十二月五日に第一回目を開催してからはほぼ毎年開催され、音楽、美術、演劇等の発表のほか文化運動や文化行政といった、文化全般にかかわる問題点についても話し合いがなされた。
美術館設立に文化集会が乗り出したのは、三十五年十月三十一日の第二回文化集会からである。この日、同会は三分科会に分かれ、当面する問題について検討した。第二分科会では美術館の建設について話し合われ、作品の保存、陳列はもちろん「道民に日常美術品と接するふん囲気を養うためにも美術館は必要」であり、「道文化の向上という立場で運動を起こさなければならない」という意見が多数を占めた。同会では美術館建設特別委員会(九島勝太郎ほか六委員)を結成し、運動の具体案はここで立てることとなった(道新 昭35・11・1)。
こうした活動の中、三十六年六月三十日、今田敬一を代表に、美術・書道・教育等の関係者二〇人を委員として美術館建設期成会準備会が結成された。準備会はほぼ三、四日に一度の割合で開催され、北海道美術館建設期成会(以下期成会と略記)設立へ向けて体制が整えられていった。そして、九月九日に設立総会が開かれ、会長には北海道大学学長であった杉野目晴貞が選出された。同月十八日には第一回目の委員会が開かれ、美術館建設の今後の運動方針について討議がなされた。結果、二〇〇〇人を目標に会員増加のための運動を行うこと、道内各地に支部の拡大をはかること、美術館の青写真を作るとともに道議会や札幌市議会に請願、陳情すること等が確認された(道新 昭36・9・19)。
九月二十八日、同会は美術館の基本構想について話し合い、規模は二〇〇〇坪で道立とすることが適当であるという結論に達した。ほかに、美術館の性格としては郷土美術博物館的機能と展覧会場としての機能だけではなく、講習や講演、研究会などの教育的役割をも果たす、多面的な美術活動の場とすること、建設地は中島公園内の旧拓殖館、農業館跡を含む場所を最適とすること等が話し合われた(美術史)。
美術館の具体的な構想や後述する建設運動などの活動を行う一方、期成会は三十六年十二月十一日に道議会へ「道立美術館建設に関する申請」、札幌市議会へは「道立美術館建設に対する協力についての請願」を提出した。