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新演劇人協会と札幌演劇研究所

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 昭和二十一年春、東京で、土方与志を幹事長に新演劇人協会が誕生する。二十三年二月にはその支部として、北海道新演劇人協会が結成され、同年五月、自由劇場、北大演劇研究会、市内の職場劇団などが参加し、結成記念公演として菊田一夫作『堕胎医』が上演された。戦後初めて実現した本格的舞台として、中央公民館で公演後、小樽、炭鉱地帯にも巡演し、大きな反響を呼んだ。しかし自由劇場は、二十二年二月の二・一スト以降、労働組合運動が大きな制約を受けるようになり、安定した受け入れ基盤を失って資金難で解散に至る。

写真-12 北海道新演劇人協会結成記念公演「堕胎医」(昭23.5)

 二十四年九月、新演劇人協会が「札幌演劇研究所」を開設した。西村真吉が空いていた菓子工場を提供し、東京から招かれた宅昌一、木下ゆずる、それに五條彰、関口次郎、渡辺孚らが講師となって三カ月間、体操、美術、歌、演劇史などの授業が行われた。受講生による『風の吹く一幕』『姫岩』上演の後、修了生によって五條彰劇団人間座を発足させ、これに職場劇団からもメンバーを加えさっぽろ芸術座と改称して、二十六年七月、田中千禾夫作『おふくろ』で旗揚げする。「このとき五條が考えていたのは〝特定の観客にのみ支持される特定のレパートリィからの解放〟であった。演劇の政治性との決別といってもいい。そのためには職業的な訓練を経たプロ劇団でなければならないというのが劇団人間座の目標であった」と細田恵子は回想する(道内演劇界における五條彰 北海道演劇史稿)。
 さっぽろ芸術座は、菅井誠良を中心にスタニスラフスキー・システムを学ぶなど、高度な演劇づくりを目指すが、完璧を期す五條の考えから稽古だけで上演にいたらないことが多くなり、三十年には札幌小劇場が分裂、三十六年以降活動は停滞し、数名が上京してプロに進んだ以外、五條の志は実らなかった。