札幌の高校演劇は、昭和二十二年十二月、札幌第一中学校(現札幌南高)演劇部発行の「演劇会報」に載せられた、市内中学校演劇部への協力呼びかけから出発した。翌二十三年、中等教育が旧制から新制に移行する。呼びかけに応え、新制となった札幌二高(現札幌西高)の小野栄一(のちに東京で活躍)等が中心となって自主的な連絡組織である札幌高等学校演劇連盟が結成された。二十五年の男女共学開始にさきがけ、女子高との合同発表会が実現するなど、札幌の高校演劇活動は生徒自身の手によって盛り上がりを見せた。
二十六年、北海道高等学校教職員組合(道高教組)の第一回中央執行委員会で全道高校演劇コンクールの開催が提案され、地区予選を経て同年十一月、札幌で第一回大会が開催された。小野寺俊一、渡辺孚、関口次郎等、当時一流の演劇人による審査の結果、代表一六校のなかから札幌北高の『ヌタックカムシュペ』(五條彰作/鈴木喜三夫演出)が総合賞、高教組杯に選ばれた。高教組文化部主催でスタートした大会は、二十九年の第四回(帯広)から、北海道高等学校文化連盟(高文連)が主催となって継続する。
このように全道的な組織化がきわめてスムーズに実現した背景として、職場演劇や組合活動の枠組を見ることができるが、高校演劇に固有の展開として注目されるのは、若い指導者等による創作劇への取り組みである。三十年代に蓄積された創作脚本への志向は、本山節彌によって大きく開花する。啓北商業高校定時制に勤務し、昼間は静修女子高の講師だった本山が、ふたつの演劇部のために書き下ろし、演出した作品群は、全道大会総合賞を独占し続けた。そして四十一年八月、第一二回全国高校演劇コンクール(東京)で札幌の啓北商業高校定時制の「オホーツクのわらすっ子」が最優秀賞、文部大臣賞に選出され、これによって北海道の高校演劇は全国にそのレベルを示すこととなった。その後、転勤した札幌開成高校でも二度にわたって全国一に輝くなど、本山の活躍に牽引され刺激を受けて、橋本栄子、菅村敬次郎、森一生など、それぞれに個性ある書き手、指導者が生まれた。
競争意識の激化による弊害を解消する目的で、四十四年、札幌で始まった地域高校の合同公演は、交流から生まれる熱気、大作、名作への取り組みなど、個別の活動では得られない魅力によって回を重ね、成果をあげて現在に至っている。