「個人」の意思による氏子組織は、各種祭典費、神職の給与、社殿の維持費など経営上欠かせない経費をまかなうことはできなかった。ことに、かつて官幣大社として維持運営費を全面的に官に依存していた札幌神社は、重大な局面にあった。
札幌神社の場合、運営費だけでなく、国有地を境内地としていることから「寺社に無償で貸し付けてある国有財産の処分に関する法律」(昭22・5・2施行)の摘要をうけた。つまり、国有境内地は、その取得の来歴によって、無償譲与とするか、半額または時価で払い下げるとしていた。そのため、広大な境内地を確保するには、無償譲与の証拠となる創祀当初の文書の探索と、払い下げを受けるための資金に苦慮することになった。一時は、札幌神社そのものを頓宮に移す案さえ考えられたという。氏子総代からは、「極力無償払い下げ」の陳情運動も展開された。二十五年に始まる第一次処分では、神社明細帳に記載されていた境内地六万二千余坪が無償譲与となり、他に境内地二万三千余坪と神社山五万七千余坪を時価の半額で払い下げることになった。その経費二二二万円は五年賦で納入する契約にしたが、境内地の一部を道路用地として札幌市に売却して、二十八年に完納した。払い下げの資金は、札幌神社崇敬講社の精力的な募金活動が支えていたが、飛地境内地五〇〇町歩余の払い下げは第二次処分として残された(北海道神宮所蔵資料)。
国有境内地の処分は、旧民社の場合、それほど大きな問題ではなかった。北海道の神社の特徴として、創祀が開拓移住者の手になるところから、境内地は氏子の寄付であったため、神社の私有財産として認められた。しかし、小作地については、「自作農創設特別措置法」(昭21・10・21公布)、いわゆる農地改革の対象となった。新琴似神社では、二六町歩余のうち、境内五〇〇坪と一町歩余の社地を残して小作人に払い下げ、「一朝にして無財産、収入を失う」ことになった(新琴似百年史)。一般の神社は、初穂、祈禱などよりも小作地からの収入が経常費を支えていただけに、農地改革の影響は大きかった。ちなみに、札幌神社の小作地総面積はさらに大きく、四九万余坪だったとされている。