上記の混乱したさなかに大きく揺れ動き、都市の姿と市民の意思が問われたのがオリンピックの再招致問題であった。
昭和五十二年三月三日の市議会の代表質問で鯉登義夫(公明党)は、「国際都市、北方圏の拠点都市としての地位を一段と高める」こと、「多額の公共投資、民間投資を誘発し、景気回復の面でもきわめて大きな期待が持たれる」ことなどを理由に、一九八四年冬季オリンピックの再誘致を市長に質問した。それについて板垣武四市長は、「市民の世論の上に立たなければなりません」と答弁していた(札幌市議会会議録)。
これが発端となり、三月十四日に札幌観光協会、四月十八日に札幌スキー連盟、十九日に札幌商工会議所が再誘致の陳情を市長・市議会に提出し、その後、競技団体による「賛成」もあいつぎ、「市民の世論」づくりが加速されていった。一方では五月に入り、自然保護団体、労働団体からは「反対」の要望書が出された。四十七年のオリンピックで競技施設造成のために手稲山、恵庭岳の森林・自然が破壊されており、その「反省」の上に立っての反対であった。このように再誘致をめぐる「市民の世論」は、二分した状況となっていた。そのために住民投票を求める声もつよかったが、かわって市では八月に三〇〇〇人を対象とした市民の世論調査を実施した(回答二三五五人)。その調査では賛成六八パーセント、反対二五・三パーセント、わからない六・七パーセントとの結果になり、これをもとに市長・市議会がともに再誘致へ動きだした。九月八日の市議会総務委員会で誘致陳情を満場一致で採択、十日の本会議で正式決定された。
開催地の決定は五十三年五月十八日に、アテネでのIOC総会でなされたが、決選投票の結果、サラエボ三九票、札幌三六票の僅差で破れ再招致には至らなかった。札幌が有利と見込まれていただけに、衝撃と落胆は大きかった。「敗戦」理由として板垣市長は、(1)IOCのヨーロッパ中心主義、(2)成田空港の反対闘争などの国内治安と自然保護団体などの誘致反対運動などをあげていた(十四期小史)。実際、IOC総会の開期中、道内の自然保護団体が現地にても反対運動を行っていた。
この再招致問題は『第一四期札幌市議会小史』が、「自然保護、或いは自然破壊の問題は、ある意味では今後の本市の行政にオリンピック大会招致の問題以上に大きな波紋を投げかけた」、「他方札幌市民が示した反応にもお祭気分的な雰囲気が払拭され、札幌市の『町』の問題として今回のオリンピック再招致問題が真剣に論じられていたことに、大きな特徴が見られた」と述べているように、今後の都市・マチづくりの転換点ともなる、大きな意味をもっていた。